秋月町(読み)あきづきまち

日本歴史地名大系 「秋月町」の解説

秋月町
あきづきまち

[現在地名]甘木市下秋月しもあきづき野鳥のとり上秋月かみあきづき長谷山はせやま

現甘木市北西部、古処こしよ山の南西麓に築かれた秋月藩黒田氏の陣屋(秋月陣屋)の西側に発達した陣屋町で、秋月城下ともよばれる。小石原こいしわら川の支流野鳥川流域の小平地(秋月盆地)に形成された。秋月街道が通り、同街道の宿駅でもあった。町の敷地の大半は下秋月村の村域にあたるが、陣屋・武家屋敷の一部は野鳥村、町家の一部は上秋月村(浦泉町の南側)長谷山村(建出・西魚町)にかかっていた。現在は旧城下のほぼ全域が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。

〔秋月藩成立以前〕

 文禄四年(一五九五)一二月二一日、朝鮮出兵の準備のため豊臣秀吉によばれた島津義弘帖佐ちようさ(現鹿児島県姶良町)を立ち、「秋月金屋市中」で年を越している(「島津義弘公譜」など)。慶長元年(一五九六)相良頼兄千栗ちりく(現佐賀県北茂安町)から当地を経て豊前小倉で船に乗り、一二月八日に大坂に着いている(二月一一日「相良頼兄書状」相良家文書/大日本古文書五―二)。同五年九月、黒田如水毛利勝信関ヶ原の合戦に西軍として参戦している間に小倉城(現北九州市小倉北区)を難なく奪い取り、城番を入れ置いた後、大隈おおくま(現嘉穂町)を過ぎ八町はつちよう(八丁越)を越え、当地を通り甘木に陣をとっている(豊後陳聞書)

〔町の構造〕

 元和九年(一六二三)に福岡藩初代藩主黒田長政の遺言により、二代藩主黒田忠之は弟の長興(長政三男)に五万石を分知して秋月藩が成立すると、寛永元年(一六二四)には家中屋敷の縄張りが行われ、長興に付けられた家臣らが福岡城下から秋月へ移った。寛永後期の町の様子を示す秋月古図(秋月郷土館蔵)によると、陣屋(梅園館)の表門(西側)に接して南北に通る杉馬場すぎのばばがある。同馬場の西方を並行して南北に走る通り(現在の主要地方道桂川―下秋月線)と、この通りに直交し、野鳥川の北側を東西に走る秋月街道(旧国道三二二号)がおもな通りで、この二つの通りが交わるところが札辻であった(この構造はその後も変化はない)。南北の通りは、北は八丁はつちよう口から高内こうち(下秋月村枝郷)を経て白坂しらさか峠越で飯塚方面へ、南はうら(井ノ浦口・浦泉口とも)から三奈木みなぎ方面へ通じ、東西の通りは東は野鳥口から野鳥村方面へ、西は長谷山口(福岡口)から甘水あもうず村方面へ通じていた。町家は南北の通りでは、札辻から北の八丁口までの両側、南は札辻から湯ノ浦口に向かう中ほどまでの両側、東西の通りは札辻から西の福岡口までの両側に並んでいたが、まだその数は少なく、町裏には田圃や草地があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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