中国,清時代の歴史学者。字は実斎,号は少巌。浙江省会稽県(現,紹興県)の人。青年時代から史学に強い関心を寄せ,28歳のとき,劉知幾の《史通》を読んでから,史意(史学理論)を自覚的に考察するようになった。しかし乾隆43年(1778),41歳で進士に合格するまでは,各地の地方志を編纂し,独自の方志学をうちたてるかたわら,華北各地の書院の教師で暮しを立てざるをえなかった。彼の名を後世に残した《文史通義》8巻は,このような辛苦の生活の中で,36歳のときに書き始められたが,刊行されたのは,没後31年,1832年(道光12)のことである。その書の冒頭は,〈六経は皆史なり〉の有名な命題で始まっている。聖人の道を盛った経書が史書の位置に格下げされているのである。しかし真の意味は,聖人の〈道〉は形而上の形にあらわれないもので,〈器〉という形而下のものを通じて具体的に〈道〉を知ることができる。史書は,その〈器〉にほかならない。そこで〈道は器に寓せらる〉というテーゼが強調されているのである。また彼は,歴史家には,《史通》に説かれている〈才,学,識〉のほかに〈史徳〉をそなえるべきだと主張した。著述にはほかに《校讐通義》があるが,当時,全盛期にあった考証学と学風を異にしたため,生前,死後もほとんど顧みられることがなかった。ようやく清末になって内藤湖南の顕彰により,浙東史学の最高峰をなすものと評価されるに至った。今日では他の文をも含めて《章氏叢書》にすべて収録されている。
執筆者:坂出 祥伸
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中国、清(しん)朝、乾隆(けんりゅう)~嘉慶(かけい)時代の史学者。会稽(かいけい)(浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)県)の人。字(あざな)は実齋。1778年、41歳で進士となる。考証学が全盛の乾隆年間(1736~1795)にあって、考証学や宋学(そうがく)とは異なる特異な歴史哲学を構築したほか、地方志に関しても独自の理論を展開した。とくに、その史学理論は清末以後になって注目されるところとなり、浙東史学におけるもっとも優れた存在として位置づけられた。著書に、経学を論じた『文史通義』、目録学に関する『校讐(こうしゅう)通義』のほか、『和州志』『永清県志』『亳州(はくしゅう)志』『湖北通志』などの編修がある。また著述を編集した『章氏遺書』がある。
[石橋崇雄 2016年3月18日]
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1738~1801
清の史学者。浙江(せっこう)省会稽(かいけい)の人。字は実斎(じつさい)。浙東史学の第一人者で,その著『文史通義』や『校讐通義』(こうしゅうつうぎ)は独特の史学理論を展開したものとして名高い。また地方志についても独自の見識を示した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…地方志の編纂は明・清時代にはきわめて盛んに行われ,地方長官が当該地域の学者を動員し資金を募って編纂することが通例となる。このような学者の中でも,〈六経皆史〉のテーゼで知られる清代の史学理論家章学誠は実際の地方志の編纂に携わる一方,単なる地理書をこえて〈地方志は地方史〉であらねばならぬとする理論を提出したことで知られる。全国ほとんどの州県に地方志があり,60年に1回,新しく作りかえられることさえまれでなかった。…
… 周は殷の叙述形式を継承するが,その創業期を過ぎると,史官の手で口頭伝承を記録し,あるいはそれらを集成することが始まったようである。清代の章学誠は,儒家のいわゆる六経はもともと古代の史官の記録から起こったものだという〈六経皆史〉説を唱え,今日でも高く評価されている。この説によって考えれば,西周中期以後史官の手で作られた記録がさらに春秋末期以後儒家によって方向づけられ六経となったようである。…
※「章学誠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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