劉知幾(読み)リュウチキ

デジタル大辞泉 「劉知幾」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐ちき〔リウ‐〕【劉知幾】

[661~721]中国の歴史学者。彭城江蘇省)の人。あざなは子玄。「史通」を著して史学批評・史学理論を考求した。

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精選版 日本国語大辞典 「劉知幾」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐ちきリウ‥【劉知幾】

  1. 中国、唐の歴史家。字(あざな)は子玄。則天武后および玄宗に仕えた。史書・史学に関する評論の書「史通」を著わして史書の理想を論じた。(六六一‐七二一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉知幾」の意味・わかりやすい解説

劉知幾
りゅうちき
(661―721)

中国、唐代の歴史家。字(あざな)は子玄。彭城(ほうじょう)(江蘇(こうそ)省銅山県)の生まれ。少年期から史書に親しみ、20歳で仕官、38歳中央政府に入り、41歳著作郎(ちょさろう)となって国史編集にあたった。しかし上司とあわず、昇進せず鬱屈(うっくつ)してその感懐を『史通』に託した。その性、剛正といわれ合理主義を貫いた。61歳で長子貺(きょう)が連座したのを訴え、かえって流謫(るたく)(流刑)されて病死。のちに唐6代皇帝玄宗は『史通』を善(よ)しといい、文と謚(おくりな)した。

増井経夫

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百科事典マイペディア 「劉知幾」の意味・わかりやすい解説

劉知幾【りゅうちき】

中国,唐代の歴史学者。進士となった後,30年間史館にあって歴史編纂(へんさん)に生涯をささげた。事実に基づき,儒教的礼楽思想にとらわれない歴史記述を理想としたが,当時の宮廷では無能な貴族高官となっていて,彼の理想は実現できず,その不満を《史通》に著した。
→関連項目章学誠

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旺文社世界史事典 三訂版 「劉知幾」の解説

劉 知幾
りゅうちき

661〜721
唐の歴史学者
字 (あざな) は子玄。幼少から史書を好み,進士及第後も終始歴史編纂 (へんさん) に関する官職を歴任した。その経験を生かして,歴史はいかに叙述すべきかを,合理主義的な立場から追求。晩年,中国で最初の歴史評論書『史通』を著作して,歴史観そのものよりも,整然と叙述された史書の形式美を高く評価した。彼の死後,『史通』が玄宗に認められて,工部尚書(工部の長官)の位を贈られた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉知幾」の意味・わかりやすい解説

劉知幾
りゅうちき
Liu Zhi-ji; Liu Chih-chi

[生]竜朔1(661)
[没]開元9(721).安州
中国,唐の歴史家。字は子玄。彭 (ほう) 城劉氏の出身。史書に通暁し,史官として『唐史』『実録』の編纂に貢献。官僚機構のなかでは制約が多くて十分に史筆をふるうことができないのを憤慨し,古来の史籍を通観論評して中国最初の史論『史通』 (20巻) を著わした。

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世界大百科事典(旧版)内の劉知幾の言及

【史通】より

…中国,唐代の歴史家,劉知幾(りゆうちき)(661‐721)の著作。中国における最初の総合的な批判的史論として高く評価される。…

※「劉知幾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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