竹田城跡(読み)たけだじようあと

日本歴史地名大系 「竹田城跡」の解説

竹田城跡
たけだじようあと

[現在地名]和田山町竹田 古城山

円山まるやま川左岸、竹田集落の北西、標高三五三メートルの古城こじよう山山頂にある。集落との比高は約二五三メートル。太田垣氏の居城で知られ、近世初頭に改修が行われた。城域は東西約五〇〇メートル・南北約五〇〇メートルの規模で総石垣で構築されている。国指定史跡(石垣部分のみ)

〔太田垣氏時代―戦国期の遺構〕

竹田城は山名四天王の一人で有力国人太田垣氏の居城として知られる。その遺構は、竹田城の石垣下斜面と北千畳から約一一〇メートル離れた北東尾根に構築されている観音寺山かんのんじやま城に明瞭に残っている。石垣下斜面には土でできた二十数段の小規模曲輪、二つの堀切、三ヵ所の畝状竪堀を含む一七条の竪堀群がみられることから、総石垣の竹田城の下に太田垣時代の遺構群の存在が考えられる。観音寺山城は標高三一三メートルにあり、主郭(二九×二〇メートル)と副郭(一八×一一メートル)からなる。特徴的なのはこの二郭を取巻くように斜面に放射状に一一条の竪堀群(なかには横堀を伴うものもある)が構築されていることで、縄張りからみて室町期までに構築された城を天正五―七年(一五七七―七九)頃畝状竪堀によって改修したものと考えられる。このように戦国期の太田垣氏の竹田城は竹田城と観音寺山城で構成され、連郭式の曲輪群を畝状竪堀や竪堀群で補強した城郭であった。ただし南千畳から城下町(東側)に延びる二条の大竪堀(長さ二五〇メートル)と観音寺山城から城下町側に延びる一条の大竪堀は居館を囲むように構築されており、山城と居館を一体化させるために織豊期(文禄以降)に造られたものと思われる。

〔織豊期の遺構〕

山上の最高所に位置する本丸を中心にして、三方向に延びる尾根に大規模な総石垣の曲輪、すなわち北西尾根に二の丸・三の丸・北千畳、南尾根に南二の丸・南千畳、北西尾根に花屋敷はなやしきと連郭式に配置しており、本丸・花屋敷を頭・胴・尾部とし、北千畳・南千畳を両翼とした鶴翼の陣形を呈している。本丸は五角形(東西約四〇メートル・南北約四〇メートル)を呈し、北側に大手虎口(内枡形虎口)、南東側に搦手虎口(石段)を設け、東側の城下町を望む本丸正面に高さ一〇メートルの天守台がせり出すように構築されている。本丸の周囲は、本丸東下の二の丸と西下の平殿ひらどのを連結した幅五―一五メートルの帯曲輪が二重に取巻いており、天守台直下の帯曲輪には搦手虎口を防御する石塁が左右に構築されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「竹田城跡」の解説

たけだじょうあと【竹田城跡】


兵庫県朝来(あさご)市和田山町にある城跡。別称が虎臥(とらふす)城。言い伝えによると、竹田城は山名持豊(もちとよ)が1431年(永享3)から1443年(嘉吉3)にかけて築城し、初代の城主に太田垣光景を配したとされる。頂上の縄張りは東西約100m、南北約400mの削平地に石垣積みとして残る。主郭は天守台をほぼ中央に置き、本丸、二の丸、三の丸を梯郭式に配し、大手の桝形を入ると北千畳郭が、搦(から)め手と推定される南千畳を南に、天守台の北西部に花屋敷郭を配している。この城跡は、全国的にも少ないほぼ完全なかたちで残る山城遺構で、かつ規模が大きいことから、1943年(昭和18)に国の史跡に指定され、2009年(平成21)には史跡の指定範囲が拡大された。JR播但線竹田駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典 日本の地域遺産 「竹田城跡」の解説

竹田城跡

(兵庫県朝来市和田山町竹田宇古城山169)
恋人の聖地プロジェクト」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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