竹谷村
たけだにむら
[現在地名]一宮町竹谷
井手村南東の丘陵地帯にあり、ほぼ中央を西浦と東浦を結ぶ道が通る。寛永四年(一六二七)の検地帳(菅家文書)に村名がみえ、高三二七石余・反別三二町余。正保国絵図では高二七六石余。天保郷帳では高二九八石余。反別戸数取調書によると反別三〇町六反余、高三一〇石余のうち計三一四石余を先山喜内ら三人の給人が知行、蔵入高は三石余。延宝元年(一六七三)の棟附人数改帳(「菅家覚」菅家文書)では家数三九・人数一三二、牛二三・馬一九。
竹谷村
たけやむら
[現在地名]松島町竹谷
小泉村の北に位置し、北から西にかけては品井沼、東は鳴瀬川で限られる。西部の幡屋村に接する地域を上竹谷、鳴瀬川沿いを下竹谷とよぶ。上竹谷は片町・新田町・猪里沢などの集落からなり、これらを総称して八瀬沼という。これは現在も残る鰯沼を中心として八つの小さい沼があったための名称といわれる。上竹谷の諸集落は品井沼干拓の際の入植者によって形成された。字貝殻塚に貝殻塚貝塚があり、小規模な舌状台地に発達した貝塚で、鹹水産貝類が混入されている。また字清水前には藤ノ巻横穴古墳群がある。正保郷帳によると田二一貫四七文・畑二貫二九二文、水損の注記がある。
竹谷村
たけのやむら
[現在地名]蒲郡市竹谷町
柏原村の南。南は海に面する。中世は竹谷庄に属した。近世初めは形原松平氏領―深溝形原藩領―再び形原松平氏領と変遷した後、延宝元年(一六七三)幕府領、同八年松平左門の知行地、元禄一一年(一六九八)再び幕府領、享保三年(一七一八)に竹本・桑島・富松・林氏の四給村となり、さらに幕末には一部西尾藩に編入されて五給村であった。
寛永四年(一六二七)九月の参州宝飯郡竹谷村畑方帳(塩津中学校蔵)によると、反数合計五町四反余、分米五五石余。地名に油井・いまミどう・野川・つき田・しやくち・いぬかい・城・城下・佐久間・内山・とうせんかいとなどがみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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