笠和郷(読み)かさわごう

日本歴史地名大系 「笠和郷」の解説

笠和郷
かさわごう

古代大分郡笠和郷(和名抄)を継承し、大分川河口部左岸で、高崎たかさき山から上野うえの丘につながる舌状台地の北側を主体とする地域に比定される。久安元年(一一四五)二月日の由原宮宮師僧院清解状(柞原八幡宮文書)の外題に「下 笠和弁済所」とあり、院清は神領としての塩浜を所持せず、御供に必要な塩を国料塩浜三町の上分で賄っているが、由原ゆすはら宮に賀茂・春日両社と同様に塩浜の奉免を申請し、留守所より笠和郷内の便宜な場所に塩浜を開発立用することが許可されている。しかしこの塩浜が荒廃したため、新たに永万元年(一一六五)一二月、当郷塩浜刀禰に塩浜三反を由原御領として奉免すべき命が下された(「某下文」同文書)。しかし、新任国司によって奉免が否定されたため、嘉応三年(一一七一)由原宮宮師定清が御供塩浜三段の奉免を国司に申請し、許可されている(三月日「由原宮宮師僧定清解状」同文書)。しかしこの塩浜も洪水で流失したため、嘉禄二年(一二二六)正月に留守所は当郷に対し、塩浜三段の替地として東浜内の便宜の地の開発を命じている(「豊後国留守所下文」同文書)

文治年中(一一八五―九〇)小山田貞遠によって作成利用された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に「西大門外一丈直入郷、次二丈笠和郷」「北生江垣九十間内(中略)次三間笠和郷」「鳥居笠和郷」とみえ、当郷は宇佐宮仮殿建設における一国平均役を負担しており、このほかにも北大門東脇・国司屋一宇・三間渡樋・大門南中間甃・北大門西脇・東廻廊の造作役を負担した。なお当郷と荏隈えのくま郷・判太はた郷の三郷が接する境界地点に高国府たかごうが所在していた(建長六年六月五日「法眼幸秀・頼秀連署契状」志賀文書)。豊後国弘安図田帳には「笠和郷百七十町 領家徳大寺中納言殿、地頭職兵庫入道殿」、続けて「永興国分寺二十三町八段内」として「十三町八段 永興寺」「十町 国分寺、地頭甲斐国住人市川左衛門宗清法名連性・五郎」「内梨畑、大略依為畠地(田脱カ)代不分明、地頭相模四郎」とある。当郷の地頭職は大友家の惣領である大友頼泰が所持しており、大友惣領家に相伝された。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)にも「同国笠和郷」と記され、時の大友惣領が地頭職を当知行している。

笠和郷
かさわごう

和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに笠和とみえる。郷域は現大分市の上野うえの台地の北側地域から生石いくし、別府市の一部(大字内成)に及ぶ。その大部分が都市化されており、郷成立の前提となる遺跡は少ない。久安元年(一一四五)二月日の由原宮宮師僧院清解(柞原八幡宮文書)によれば、郷内生石に由原ゆすはら八幡宮の九ヵ度の御供のために塩浜の開発と不輸が認められている。また同解の外題よりほかに三町の国免田があったことがわかる。しかしこの時開発を許可された塩浜は、嘉応三年(一一七一)以前に荒廃しており、改めて三段の開発・不輸が許されている(嘉応三年三月日「由原宮宮師僧定清解」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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