中国、辛亥(しんがい)革命(第一革命)後の1913年、袁世凱(えんせいがい)の国民党弾圧に対する反袁の挙兵。1911年の辛亥革命により清(しん)朝が倒れ、中華民国が成立、12年3月袁世凱が北京(ペキン)で臨時大統領に就任した。革命成功後、一時に種々の政党が誕生したが、潜在的に分裂の要素を抱えていた中国同盟会もまた内部分裂をおこした。袁世凱は反同盟会の諸党を集めて共和党をつくり、自己の御用党とした。革命派側も少数党を合併して同盟会を国民党に改組し、袁の独裁を政党内閣によって抑制しようとした。13年2月の国会議員選挙で国民党側が大勝すると、じゃまな国民党勢力をそぐために袁世凱はまずその領袖(りょうしゅう)である宋教仁(そうきょうじん)を暗殺するとともに、国民党系の3人の都督(一省の軍事責任者)を罷免または左遷した。この袁の挑発にのせられ、13年7月、江西省の李烈鈞(りれつきん)などがたって反袁の軍事行動をおこした。これを第二革命という。しかし、準備不足のうえ、革命派の結集も弱く、軍事面では簡単に敗北した。第二革命失敗後、袁の権力は強化され、彼は一歩進んで帝制運動を推進するようになり、やがて第三革命が起こされた。
[倉橋正直]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そこで袁世凱は国民党が国務総理に擬した宋教仁を暗殺し,あれこれと国民党を挑発した。孫文,黄興らは反袁の武装蜂起(第二革命)に決起したが,簡単に鎮圧された。13年10月,初代正式大総統に就任した袁世凱は,その独裁支配をさらに強固にすべく帝制復活に乗り出した。…
…7月,追いつめられた国民党側は九江,南京等で蜂起したが,いずれも簡単に袁世凱の手でねじふせられた。いわゆる第二革命の敗北である。武昌蜂起から1年有半,革命派は政権を握りながら国民の期待にほとんど応えられなかったことにより,孤立状態で蜂起したのである。…
※「第二革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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