中国、民国期の政治家。広東(カントン)省出身。日本の法政大学卒業。1905年(明治38)、東京における中国同盟会の創立に参加し、孫文(そんぶん/スンウェン)のもとで活動した。1912年、中華民国南京(ナンキン)臨時政府成立とともに臨時大総統府秘書長、ついで広東都督となる。翌1913年第二革命に失敗し、日本に亡命。1924年国民党改組後、宣伝部長となり、孫文北上後、大元帥の職権を代行した。
1927年蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)とともに共産党弾圧の四・一二(上海(シャンハイ))クーデターを発動、翌1928年国民政府立法院長となった。蒋介石と並ぶ国民党の重鎮であったが、蒋と意見が衝突し、1931年、彼によって南京に監禁された。九・一八事件(柳条湖(りゅうじょうこ)事件)後、監禁を解かれたが、依然として蒋介石、汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)らの国民政府と対立し、広東にあって隠然たる敵対勢力を維持した。1935年ヨーロッパに外遊、翌1936年帰国後死去、広東で国民政府の国葬が行われた。
[安藤彦太郎]
中国の政治家,中国国民党の最高指導者の一人。広東省出身。法政大学に留学中,孫文を知り,1905年(光緒31)中国同盟会成立とともにこれに加盟し,機関誌《民報》の主な執筆者の一人として,改良派の機関誌《新民叢報》と論戦を交えた。辛亥革命後,臨時大総統孫文のもとで総統府秘書長,のち広東都督に就任。第二革命失敗後,日本に亡命し16年帰国。19年上海で孫文らと《建設雑誌》を発行。孫文死後,国民党右派の領袖となった。27年南京国民政府主席,28年立法院長となったが,国民会議開催をめぐる意見の対立から31年蔣介石により監禁され,立法院長を罷免された。これを機に反蔣運動が高まり,胡漢民を支持する広東派は広東に国民政府を樹立したが,満州事変勃発で南北両政府は妥協し,胡漢民は釈放された。32年以後香港,広東で国民党中央執行委員会西南執行部常務委員として蔣・汪(兆銘)合作下の国民政府と対立を続けた。
執筆者:藤井 昇三
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… そもそも国民党の右派は国共合作に反対であった。右派の反共策動は25年8月,容共左派の中軸廖仲愷(りようちゆうがい)の暗殺で頂点に達したが,このときは中間派の蔣介石が左派とむすび,右派の胡漢民,許崇智(右派軍の領袖)を追放して結着がついた。翌年3月,蔣介石は中山艦事件を挑発して共産党系の武力基盤をゆるがせ,5月の二中全会に党務整理案を提出して共産党の活動制限をはかった。…
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