改訂新版 世界大百科事典 「簗」の意味・わかりやすい解説
簗 (やな)
河川の一部を仕切って木や竹を並べ立て,魚の通路をふさいでこれを捕らえるという漁法は,東南アジアを中心に世界各地で見られるが,中国では《周礼》に〈梁は水偃なり,水を偃きて関空をなし,笱を以てその空を承く〉とあり,日本ではアユを捕るための〈ひまさぎる簗〉は《古事記》《日本書紀》にも見られる。〈簗〉は和字であり,〈魚梁〉と書いて〈やな〉と読ませることもある。小枝や細竹をびっしり並べた間の一部をあけて,そこに〈簀棚(すだな)〉を斜めに張って,泳いでくる魚をその簀の上に受けて捕らえる装置で,簀棚の代りに筌(うけ)をおくものを〈筌簗(うけやな)〉,袋網を設置するものを〈袋網簗〉という。また川の上流から下ってくる魚を捕るものを〈下り簗〉,産卵期などに遡上する魚を捕るものを〈上り簗〉という。この漁法はその川の魚を根こそぎ捕り尽くす恐れがあるので,魚族保護の立場からこの漁法を禁じているところも多い。
→漁具
執筆者:大島 襄二 構造は場所によって多少異なり,次の3種がある。(1)単に河川を横断して川を遡上する魚を止めるもの,(2)同じく河川を堰くが,陥穽部を設けて捕魚を便にしたもの,(3)清流を好み,上流で産卵し,進むばかりで退くことを知らず,障害物があればその上に跳躍するなどの魚の習性を利用し,自動的に陥穽部に陥らしめるもの,などである。杭と桁とは縦横に組み合わされ,竹を簾(すだれ)のように編んだ簀を支える。また同一河流においても,上流では下り簗,下流では上り簗という相違があり,上り簗は遡上する魚の退路,進路をともに断つために,2段,3段に構築し,簗の間の魚を投網,叉手(さで)網などで捕らえる。簗は魚の群集移動期を対象とするから,春から夏の終りころにかけての比較的短い期間に設置される。
現在も行われている近江安曇(あど)川下流北舟木のそれは,〈かつとり簗〉と呼ばれ,河流を横断して300~400m半円形に杭を打ち土俵で流を堰き,竹製の簀を立てかけたもので,遡上する魚を陥穽の設けのある両岸に近い部分に集めて落ち込ませる装置であり,全国各地河川の簗も,いずれもこれと大同小異のものである。北舟木の簗は〈かつとり簗〉のほかに,その下流に網簗があり,前者が小アユの漁猟を主とするのに対して,より大型の魚であるハス,ウグイ,マスなどの漁獲を主な対象とする。
中世の簗
簗が設置される場所は古代の御厨(みくりや)との関係が深く,網代(あじろ)が種々改良,変形され,進歩したものだといってよいであろう。近江でも前出安曇川御厨の簗は早く寛治年間(1087-94)に御厨が上加茂社に寄せられて後,神人26戸(1戸2人ずつ)の株となり,他荘による侵略,濫防の停止が命じられている。北舟木と上加茂社とのつながりは江戸初期の1602年(慶長7)まで続き,以後は御蔵入小物成地となっている。琵琶湖から流れ出る瀬田,宇治の流域では,宇治のものや,瀬田川と大戸川合流点付近(近江国内)の田上(たなかみ)の網代が有名であった。湖東の野洲川には,当地方での古社であり,有力でもあった三上(みかみ)神社,ならびにより下流の野洲北川に近く沿った兵主(ひようず)神社とのつながりがあり,供祭簗,神供社領簗と称し,それぞれ前者は1312年(正和1)以来,後者は1493年(明応2)以来の史料の明証をもち,少なくとも鎌倉期以来簗が存在していたことが知られる。前者は井ノ口,乙窪(おちくぼ),比江の北川筋,開発などの南川筋,より上流で中流部の三上などに簗所があったが,野洲川中流部での土砂堆積による川床の変化によって古くからの場所での稼行が困難になった。
いずれも簗衆の組織があり,権利化していたが,兵主社のものは下流北川の吉川にあって,簗漁業者(簗衆)26名中の22名が吉川村の住人であった。江戸期に至って数回の紛争事件を起こしているが,いずれも株をめぐってのものであり,漁利の多さを物語るであろう。前述の安曇川北舟木の簗でも簗株52人(4組)の支配組織として四河(よかわ)が結成され,これに付属して漁獲物の販売を担当する鰺屋(あじや)株16戸が発生していた。株は現在もほとんどそのままに残存している。
執筆者:喜多村 俊夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報