米倉村(読み)よねくらむら

日本歴史地名大系 「米倉村」の解説

米倉村
よねくらむら

[現在地名]八代町米倉

おか村の西に位置する。あさ川が村の南側を西流し、対岸は前間田まえまだ(現境川村)。枝郷に中尾なかお富沢とみざわ大谷おおやがある(甲斐国志)。永禄四年(一五六一)の番帳の二四番に「米蔵の禰き」とみえ、勤番社は当地の鉾衝ほこつき社と考えられる。同一一年には「米倉番匠」の家一間分の普請役が免除されている(戊辰六月二八日「武田家印判状」橘田修一家文書)。天正一一年(一五八三)閏正月一四日の徳川家康印判状写(記録御用所本古文書)には「米蔵郷」ともみえ、当地の夫丸一人が有賀式部助種政に安堵されている。また同年四月一九日、竜安りゆうあん寺に地内の一八貫文、二宮(現御坂町美和神社)には米蔵代長分のうち二貫文が安堵されている(「徳川家康印判状写」御庫本古文書纂、「徳川家康判物」甲斐二宮神社文書)

慶長古高帳に米蔵村とみえ、高六三九石余。


米倉村
こめぐらむら

[現在地名]森町一宮いちみや

出目でめ村・赤根あかね村の北西にあり、赤石山脈の最南端、磐田原台地に続く丘陵地に位置する。東を一宮川が流れ、耕地が広がる。豊田とよだ郡に属する。南は同郡川井かわい(現袋井市)。享禄三年(一五三〇)六月三〇日、今川氏親室寿桂尼から「米蔵郷極楽寺」に寺領一町五反が安堵された。ただし一町五反のうち五反は勝福しようふく持徳じとく(正福寺自徳庵)領というとされている(「寿桂尼朱印状」玖延寺文書)


米倉村
よねぐらむら

[現在地名]岡山市米倉

西市にしいち村の南、ささ川の左岸にあり、東は万倍まんばい村、南は当新田とうしんでん村。寛永五年(一六二八)の新開で(「池田家履歴略記」池田家文庫)、備中松島まつしま(現倉敷市)の浪人和気与衛門の子与左衛門が備前に移住、藩許を得て当地を開発、この時岡山藩領備中都宇つう中田なかだ(現同上)の浪人四郎兵衛は資金を援助して一族とともに入植、また開発後、浜野はまの村長右衛門が入植、この三軒を基礎として(元株という)、分家などによりしだいに当村が形成されたと考えられる。与左衛門は開発の功により庄屋を命ぜられ、その後同家は代々大庄屋を勤めた(「村之者共先祖申立系図」和気文書)

寛永備前国絵図には米倉村新田(高付なし)とあり、元禄郷帳(池田家文庫)では高二三三石余。


米倉村
よなぐらむら

[現在地名]八日市場市ホ

八日市場村の西に位置し、西は飯倉いいぐら村。南は横須賀よこすか村。集落は東西に延びる多古銚子たこちようし道沿いに形成される。中世は米倉郷とよばれた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、旗本堀・松平領で、米倉組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高九一七石余、同じ旗本の相給で、ほかに西光さいこう寺領がある。この間新田開発が盛んに行われ、下流の横須賀村と悪水落しをめぐって争論が起き、同八年今後は両村沼地内には新田を造らないことで一応の解決をみている(山崎家文書)


米倉村
よねくらむら

[現在地名]古川市米倉

多田ただ川の支流に挟まれた穀倉地帯にあり、北は塚目つかのめ村、南は西荒井にしあらい村、東は稲葉いなば村、西は塚目村・飯川いいがわ村と接する。大崎おおさき平野のなかでも最良の米作地帯で、「観蹟聞老志」は、この地は他村よりも早く稲が実るので、早稲で焼米を作り、一宮と宗廟とに供えたと記している。正保郷帳に田四八貫八五文・畑五貫六三二文とあり、ほかに同所新田二貫四四六文がある。


米倉村
こめのくらむら

[現在地名]いわき市錦町にしきまち

さめ川が菊多きくた浦に注ぐ海岸部右岸にあり、西は大島おおしま村、南は中田なかだ村。菊多郡に属した。近世は泉藩領。正保郷帳にみえず、元禄郷帳にみえるので、この間に大島村から分出したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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