改訂新版 世界大百科事典 「粘土板文書」の意味・わかりやすい解説
粘土板文書 (ねんどばんもんじょ)
clay tablet
古代オリエント,エーゲ文明世界などで楔形文字,線文字(線文字A,線文字B)を記す書料として使用された粘土板の総称。粘土板の形態は長方形,正方形,円形が普通で,エラム地方では扁平な砲弾形なども使用された。このほか円筒形,円錐形,樽形,球形,プリズム形の粘土製文書や煉瓦なども広義の粘土板文書として扱われることがある。楔形文字は一般にアシの茎でつくった筆で押しつけるようにして書かれ,線文字は尖筆で引っかくようにして書かれた。楔形文字は原則として左から右へ書かれる。大型の粘土板は欄columnに分けられるが,欄も左から右へ書き進める。ただし裏面は上下を返し,欄は右から左へと書かれる。メソポタミアでは粘土板は日乾しにするか,窯で600℃前後で焼いて保存された。とくに必要な場合は粘土のケースに入れられた。これは一種の封筒で,その表面にも中の粘土板と同じ記録が書かれたので,〈ケース・タブレットcase tablet〉と呼ばれる。確認の必要が生じたときには,封筒を割って中の記録を取り出した。またある種の粘土板は,記録を書いた上に円筒印章をころがして捺印した。
これまで発見された粘土板文書は約40万に達するが,粘土板に書かれた記録の内容は多様である。前3100年ころから前2400年ころまでの粘土板はすべてシュメール語で書かれ,内容は主として家畜,穀物,土地その他行政・経済に関する文書である。前2400年ころから国王碑文,ついで書簡,裁判記録,契約書などが現れる。バビロン第1王朝時代のシュメール文学の作品も発見され,現在までに5000個を超える粘土板が出土している。復原解読された広義の文学作品には,叙事詩,神話,神や国王に対する賛歌,哀歌,多数の討論詩,それに諺(ことわざ),格言,風刺,寓話などを集大成した12巻を超える〈知恵文学〉などが知られている。叙事詩には実在したと考えられる英雄ギルガメシュを主人公とするエピソードが多く,哀歌には都市ウル,ニップール,ウルク,エリドゥ,アッカドなどの破壊を哀悼する作品が知られている。有名なバビロニア語版およびアッシリア語版の《ギルガメシュ叙事詩》は〈友情〉と〈死〉を主題として構成された長大な物語で,旧約聖書のノアの洪水伝説の原型と考えられるエピソードもこの中で語られている。この《ギルガメシュ叙事詩》は古代オリエント全般に流布していた。このほか《イシュタルの冥界下り》や天地創造神話《エヌマ・エリシュ》などを含むアッカド語の叙事詩,神話が知られている。また文学作品などの〈書出しincipit〉を集めたカタログも多数発見されている。
シュメール語を文化言語として学習するために,アッカド語との対訳の膨大な語彙集,文法書が体系的に作成された。語彙集の一つである《ハルラ・フブル》は24巻,約8000行からなる長大なシリーズで,家畜,植物,魚類,鳥類,羊毛,皮製品,武器類などの各意味分野でまとめられている。語彙集はヒッタイト,エブラ,ウガリト,エラムその他の国々にも伝えられ,ヒッタイト語,ウガリト語,フルリ語などの訳が添加されている。ギリシア文字で書かれた写本の断片も数種発見されている。新バビロニアの文法書では文法術語も考案され,形態素分析も認められる。粘土板文書にはこのほか天体の運行を克明に記録した天文表,占星書,各種の占書,医学書,九九表その他の数学書,地図,祈禱書,儀式書,王朝表,神名表,星名表,歴史書など多様な文書が知られている。ヒッタイトでは馬術書,ウガリトでは楽譜なども発見された。出土地の名前を冠して呼ばれるエジプトのアマルナ文書,シリアのマリ文書,ウガリト文書,ヌジ文書,アララク文書などは外交関係の重要な資料を含んでいる。特に近年シリアのエブラの遺跡で発見された約1万7000個の粘土板は未知のセム語の一つであるエブラ語で書かれており,古代メソポタミア史に新しい光をあてるものとして注目されている。
→楔形文字
執筆者:吉川 守
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報