日本大百科全書(ニッポニカ) 「アッカド」の意味・わかりやすい解説
アッカド
あっかど
Akkad
古代メソポタミア南部の地名。都市アガデAgade(アッカド)の名が拡大されて地域名となった。紀元前2350年ごろ、セム系民族のサルゴン1世が南部メソポタミア(バビロニア)の諸都市を征服統合して、セム系民族として最初のアッカド王国を樹立した。それ以後ほぼ現在のバグダード以南の地方の北半分をアッカド、南半分をシュメールとよんだ。シュメールとアッカドを対比させてよばれるようになるのはアッカド王国滅亡後、シュメール民族によるウル第3王朝が樹立(前2060ころ)されてからである。シュメールの王は「シュメール・アッカドの王」という称号を用いるようになる。この地方は、のちにバビロニア、さらにのちにはカルデアとよばれるようになった。アッカド地方にはすでに前2350年以前からセム系民族が居住し、シュメール人と平和的な共棲(きょうせい)関係にあり、言語的、文化的に相互影響を与えていたが、アッカド王国(サルゴン朝)以後は人種的、文化的混合が著しく進展した。アッカド地方の都市では、主都アッカドのほか、シッパル、バルシップまたはボルシッパ、キシュ、ディルバット、アクシャク(セレウコス朝のウピ)、クタ、バビロン、ドゥル・クリガルズ、フルサッグ・カランマなどがあったが、アッカドの遺跡はまだ確認されていない。
アッカド市の守護神は「アッカドのイシュタル」であった。この女神の神殿はハムラビ王によって復興されたが、古くはサルゴン1世、その孫のナラム・シン、クリガルズ、エサルハッドン、ネブカドネザル2世によってもたびたび修復されている。アッカド王国(前2350ころ~前2150ころ)は11王が治世したが、多くの碑文を残して有名なのは最初の5王(サルゴン1世、リムシュ、マニシュトゥシュ、ナラム・シン、シャルカリシャッリ)で、他の6王については碑文はごくわずかである。このうちサルゴンはシュメール語とアッカド語の対訳碑文を残している。それによれば「5400人の兵士が毎日彼の目の前でパンを食べ」ている。おそらくこれらの常備軍を背景に武力によって小アジア、シリア、エラム、アッシリアその他に進出し、一時的とはいえアッカド王権の勢力範囲と交通、貿易の範囲を飛躍的に拡大したと思われる。またアッカドに波止場をつくり、ペルシア湾を利用した通商航路を開き、それ以後の広域貿易の基礎を据えた。この時期にはシュメール人とアッカド人との人種的、文化的混合がいっそう進展し、一種の文化的複合体が成立し、バビロニア文化の母体となった。多くの文学作品の作者として知られるサルゴンの娘は、ウルの月神ナンナに仕える女祭司であり、シュメール名エンヘドゥアンナを名のっている。美術史的にもいわゆるサルゴン期を現出し、ナラム・シンの戦勝碑など数多くの優れた作品が出土している。
[吉川 守]