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日本古代に,最北地方およびそこに居住した人々に対する呼称。《日本書紀》欽明紀に佐渡島に粛慎人が船できたとの記事があり,また斉明紀には阿倍比羅夫が粛慎と戦ったとの記事がある。中国では東北境外の異民族を粛慎(しゆくしん)と呼んだので,同系とみる説もあるが,日本の最北部に居住する蝦夷(えみし)の一部,またはアイヌをさすとの説などがある。
執筆者:幸田 憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代の日本列島北部に居住した民族。本来は中国の古典で極遠の地に住むとされた伝説上の民族で,挹婁(ゆうろう)・勿吉(ぶつきつ)・靺鞨(まっかつ)などはその後裔とされる。欽明5年に佐渡に到来したのが初見で,660年(斉明6)には阿倍比羅夫(ひらふ)の軍と交戦した。696年(持統10)には渡島(わたりのしま)の蝦夷(えみし)とともに朝貢しており,蝦夷とは異なる民族とされる。中国大陸からサハリン・北海道方面に渡来したツングース系民族ともいわれるが,不明。8世紀以降は靺鞨と称され,また蝦狄(かてき)・狄と称された集団に粛慎・靺鞨が含まれる可能性がある。「みしはせ」の読みが一般的だが,粛慎・靺鞨とも「あしはせ」が本来の読みと考えられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
中国の古典にみえる異民族名。紀元前6~前5世紀以来、東北辺境外に住み、楛(こ)という木でつくった矢と石鏃(せきぞく)とを使ったという。もとは東北地区方面の住民を総称したものらしいが、漢代以後は文献上の観念的名称にすぎなくなった。『日本書紀』は、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が討ったという東北地方の民族に粛慎(みしはせ)の字をあてているが、これは、中国古典からこの名称だけを借りてきて、経略が遠くに及んだことを強調しようとしたもので、実際に粛慎が住んでいたのではない。
[護 雅夫]
古代に北辺に居住した辺民に対する呼称。中国古代では沿海州方面にいた実在の種族をさしたが、日本ではそれと同じ種族ではなく、現在の北海道方面に居住した蝦夷(えぞ)の別称のように用いられている。6世紀の欽明(きんめい)朝に粛慎が佐渡島にきている例があり、さらに7世紀なかばの斉明(さいめい)朝には阿倍比羅夫(あべのひらふ)の遠征で粛慎を討ったともある。その住地が渡島(わたりしま)とされることから、北海道アイヌのことかともされる。
[高橋富雄]
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…アイヌをどう定義するか,とりわけ現代のアイヌをどう認識し,どう定義するか,という問題は,彼らを取り巻く歴史的環境とその中での彼らの自己認識のあり方や,〈民族〉の定義の問題とも深く関わっているだけに,その定義のしかたは,時代とともに大きく揺れ動いてきた。1960年代ころまでのアイヌの現状に対する研究者を含めた大方の認識の特徴は,彼らを和人とは異なる固有の文化を有した一つの民族とはみないで,彼らは,いずれ和人に同化される,との認識を前提にして,〈アイヌ系住民〉〈アイヌ系日本人〉と称したところにある。…
…3世紀,魏・晋期以降になると,今の吉林・黒竜江両省から沿海州方面に居住した漢代の挹婁(ゆうろう),南北朝期の勿吉(こつきつ),隋・唐期の靺鞨(まつかつ),宋以降の女真をその後裔とする考えが行われた。《日本書紀》に見える粛慎(みしはせ)は,東北・北海道地方の異民族を呼んだもの。【安田 二郎】。…
※「粛慎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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