阿倍比羅夫(読み)アベノヒラブ

デジタル大辞泉 「阿倍比羅夫」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐ひらぶ【阿倍比羅夫】

古代の武将。7世紀中ごろ、斉明天皇の時日本海沿岸の蝦夷えぞを討ち、天智天皇の時百済くだら救援のため新羅しらぎと戦ったが、白村江はくすきのえの戦いで敗れた。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「阿倍比羅夫」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐ひらふ【阿倍比羅夫】

  1. 飛鳥時代の武将。斉明天皇の時、たびたび日本海岸の蝦夷(えぞ)粛慎討伐におもむく。天智天皇二年(六六三)、百済(くだら)増援のため出向いたが、白村江(はくすきのえ)新羅(しらぎ)と唐の連合軍に敗れた。阿倍引田(ひけた)比羅夫。生没年未詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿倍比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿倍比羅夫
あべのひらふ

古代水軍の将。阿倍引田臣,阿倍枚吹とも書く。大化改新後の朝廷の北方進出,蝦夷平定に大きな役割を果した。崇峻2 (589) 年,北陸道に派遣され越などの諸国を巡察。斉明4 (658) 年水軍 180隻を率いて蝦夷を討ち,飽田 (あぎた) ,渟代 (ぬしろ) 2郡を下す。帰順誓約をした飽田蝦夷恩荷 (おが) に小乙上を授け,渟代,津軽2郡の郡領を設置し,渡嶋 (おしま) の蝦夷を集めて大饗し撫柔。さらに粛慎 (みしはせ) を討ち,生きたクマ2頭,ヒグマの皮 70枚を献じた。このとき比羅夫は「越国守」であった。この地方の豪族であったかと推測される。翌5年再び水軍 180隻を率いて蝦夷を討つ。飽田 (あぎた) ,渟代,津軽3郡ならびに胆振さえ (いぶりさえ) などの蝦夷 400人あまりを集め,大饗して禄を与えた。後方羊蹄 (しりべし) を政所として,郡領をおき帰還。この功により位2階昇進する。同6年3度水軍 200隻を率いて粛慎を討つ。陸奥,渡嶋の蝦夷を使い,妙策を用いて戦い,えびす五十余人を献じた。天智天皇即位の前年 (661) 大華下位,後将軍となり,前将軍阿曇比邏夫 (あずみのひらふ) らとともに百済を救援。天智2 (663) 年前将軍上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,後将軍として兵2万 7000を率いて新羅を討ち,白村江 (はくすきのえ) において敗戦。斉明天皇の時代に大錦上,筑紫大宰帥の地位にあった。子に大納言宿奈麻呂がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿倍比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿倍比羅夫 (あべのひらふ)

7世紀中期の武将。生没年不詳。とくに水軍をひきいる。引田系の阿倍氏。大化改新後の本格的蝦夷経営の先頭になる。658年(斉明4)船師180艘をひきいて,日本海沿岸を遠征,齶田(あいた)(飽田(あきた)),渟代(ぬしろ),津軽方面の蝦夷を討ち,郡領などを定めたとある。しかしこのことを伝える《日本書紀》にはこれを粛慎(みしはせ)を討つとする記述も見られ,史料に2種類あり,さらに同種の記事が659,660年にもあることから,これが正確に歴史的事実を記録したかも問題になっている。しかし659年の遣唐使派遣に道奥(みちのく)蝦夷を伴ったことは,中国にも記録があり,このころ蝦夷経営のあったことはたしかであるが,まだ伝説的記事もあったといえる。661年,唐将蘇定方が高句麗に攻め入ると,阿曇(あずみの)比羅夫らとともに百済救援として出兵,663年にも急を告げる朝鮮に前・中・後3軍2万7000人を派遣したとき,後将軍として出陣し白村江の戦で大敗した。のち筑紫大宰帥となった。
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百科事典マイペディア 「阿倍比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿倍比羅夫【あべのひらふ】

斉明・天智朝の武将。生没年不詳。658年―660年の間日本海岸を北進して蝦夷(えみし)を征伐し,さらに渡島(わたりのしま)(北海道南部とする説や本州北端の津軽半島北部とする説などがある)にわたり,粛慎(みしはせ)を討ったと《日本書紀》は伝えている。のち新羅(しらぎ)出兵後に将軍となり,さらに大宰帥(だざいのそち)となった。
→関連項目阿倍氏皇極天皇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿倍比羅夫」の意味・わかりやすい解説

阿倍比羅夫
あべのひらふ

生没年不詳。斉明(さいめい)天皇時代の将軍。阿倍引田臣(ひけたのおみ)という阿倍氏支族の出身。658年(斉明天皇4)船師180艘(そう)を率いて蝦夷(えみし)を討ち、齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)2郡の蝦夷を従わせ、渟代、津軽2郡の郡領を定め、渡嶋(わたりのしま)(いまの北海道)蝦夷を饗(あえ)した。当時彼は越(こし)国守であったが、同年、翌年二度粛慎(みしはせ)国を討ち、後方羊蹄(しりべし)を政所(まつりどころ)とした。660年三度目の粛慎征伐を行い、夷(えびす)50余人を献じた。662年(天智天皇1)に将軍として百済(くだら)救援に赴き、翌春2万7000人の兵を率い唐軍と白村江(はくすきのえ)に戦い、敗れた。

[横田健一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿倍比羅夫」の解説

阿倍比羅夫 あべの-ひらふ

?-? 飛鳥(あすか)時代の武人。
阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)の父。斉明天皇4年(658)ごろ越(こし)国守として,齶田(あぎた)(秋田),渟代(ぬしろ)(能代)の蝦夷(えみし),さらに粛慎(みしはせ)を討つ。のち阿曇(あずみの)比羅夫とともに百済(くだら)(朝鮮)救援にむかい新羅(しらぎ)を討ったが,白村江(はくそんこう)で唐(とう)(中国)とたたかい敗れる。のち筑紫大宰帥(つくしだざいのそち)となり,大錦上にすすんだ。本姓は引田(ひけた)。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「阿倍比羅夫」の解説

阿倍比羅夫
あべのひらふ

生没年不詳。7世紀中期の武人。阿倍引田臣。越国守として658年(斉明4)4月,船師180艘を率いて齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)の蝦夷(えみし)を討ち,彼らに冠位を授け郡領に任じた。660年には粛慎(あしはせ)を討ったらしい。翌年8月,百済救援軍の将軍となり(時に大花下),663年(天智2)3月,2万7000人を率いて発遣,8月に白村江(はくそんこう)で唐・新羅連合軍に敗れた。のちに大錦上。「続日本紀」は斉明朝の筑紫大宰帥と記す。

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旺文社日本史事典 三訂版 「阿倍比羅夫」の解説

阿倍比羅夫
あべのひらふ

生没年不詳
蝦夷 (えみし) 征討に活躍した武将
658年斉明天皇のとき,日本海沿岸を北進し,津軽方面の蝦夷を討ち,さらに北海道の粛慎 (みしはせ) を征討した。のち白村江 (はくそんこう) の戦いで唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に敗れた。

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