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7世紀中期の武将。生没年不詳。とくに水軍をひきいる。引田系の阿倍氏。大化改新後の本格的蝦夷経営の先頭になる。658年(斉明4)船師180艘をひきいて,日本海沿岸を遠征,齶田(あいた)(飽田(あきた)),渟代(ぬしろ),津軽方面の蝦夷を討ち,郡領などを定めたとある。しかしこのことを伝える《日本書紀》にはこれを粛慎(みしはせ)を討つとする記述も見られ,史料に2種類あり,さらに同種の記事が659,660年にもあることから,これが正確に歴史的事実を記録したかも問題になっている。しかし659年の遣唐使派遣に道奥(みちのく)蝦夷を伴ったことは,中国にも記録があり,このころ蝦夷経営のあったことはたしかであるが,まだ伝説的記事もあったといえる。661年,唐将蘇定方が高句麗に攻め入ると,阿曇(あずみの)比羅夫らとともに百済救援として出兵,663年にも急を告げる朝鮮に前・中・後3軍2万7000人を派遣したとき,後将軍として出陣し白村江の戦で大敗した。のち筑紫大宰帥となった。
執筆者:高橋 富雄
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生没年不詳。斉明(さいめい)天皇時代の将軍。阿倍引田臣(ひけたのおみ)という阿倍氏支族の出身。658年(斉明天皇4)船師180艘(そう)を率いて蝦夷(えみし)を討ち、齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)2郡の蝦夷を従わせ、渟代、津軽2郡の郡領を定め、渡嶋(わたりのしま)(いまの北海道)蝦夷を饗(あえ)した。当時彼は越(こし)国守であったが、同年、翌年二度粛慎(みしはせ)国を討ち、後方羊蹄(しりべし)を政所(まつりどころ)とした。660年三度目の粛慎征伐を行い、夷(えびす)50余人を献じた。662年(天智天皇1)に将軍として百済(くだら)救援に赴き、翌春2万7000人の兵を率い唐軍と白村江(はくすきのえ)に戦い、敗れた。
[横田健一]
生没年不詳。7世紀中期の武人。阿倍引田臣。越国守として658年(斉明4)4月,船師180艘を率いて齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)の蝦夷(えみし)を討ち,彼らに冠位を授け郡領に任じた。660年には粛慎(あしはせ)を討ったらしい。翌年8月,百済救援軍の将軍となり(時に大花下),663年(天智2)3月,2万7000人を率いて発遣,8月に白村江(はくそんこう)で唐・新羅連合軍に敗れた。のちに大錦上。「続日本紀」は斉明朝の筑紫大宰帥と記す。
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