中国共産党が幹部の理論・実践の仕方を正すために行った作風(方法)の改造運動。(1)1942~1944年に日本軍包囲下の延安で行われた最初のもの、ついで(2)戦後の内戦で攻勢に転じ、都市の解放に向かう直前の1947~1948年のもの、(3)新中国成立の直後の1950年(これは朝鮮戦争の開始により中断)のもの、(4)1957~1958年の反右派闘争に続くもの、がある。文化大革命の最中にも行われ、近年でもときどきこの用語が用いられるが、最近では「放」(いわゆる自由化)に対する「収」(引き締め)の用語がおもに使われる。このうち(1)と(4)がとくに重要である。
(1)は、日本軍と国民党軍の包囲下で軍事的に劣勢となり、また天災などで食糧・物資が極度に不足した状況のもとで、大生産運動(とくに食糧と衣服、武器の生産)と連動して、とくに新しく解放区にきた都市出身の党員を鍛え直す運動であった。その理論的な基礎となった毛沢東(もうたくとう)の「われわれの学習を改革せよ」「党の活動態度を正せ」「党八股(はっこ)(空虚な形式主義)に反対せよ」(1941~1942)には、「学風」(空理空論を排して具体的な事実に基づく真理を求める学習態度)、「党風」(セクト主義の排除)、「文風」(文書類の表現は明白にわかりやすく書くこと)が強調されており、「三風整頓(さんぷうせいとん)」ともよばれた。この運動は大きな成果を収め、抗日戦争を勝利に導き、中国共産党は1921年の成立以来最大の力を結集した。
(4)が展開されたのは、新中国成立後、1954年には全国人民代表大会(国会にあたる)ができ、1956年には農村においては合作化が開始され、都市ではブルジョア知識人が発言力を強め、「右派」の影響力が大きくなった段階であり、ハンガリー事件など国際的な反スターリン運動を否定的にとらえた中国共産党が、1957年から約1年にわたって行ったものである。ここでのテーマは、所有制を個人所有から集団所有へ移すこと、思想的にはブルジョア思想を排し、共産主義思想を強化することを目的とした。テンポが早すぎ、知識人を過度に萎縮(いしゅく)させたことなど、いくつかの弊害を伴ったが、その後の人民公社化、国際政治における中国の存在誇示には有利に作用した。
[加藤祐三]
中国共産党独自の自己点検の方法。整風の〈風〉は,中国語ではものごとのありようをいう。整風とは,仕事のあり方やものごとの考え方を整えることで,中国共産党が生み出したものである。整風運動を中共に定着させたのは,1942年に延安を中心に展開されたそれであった。当時,延安の中共党員は80万を数えたが,その大部分は,都市からやってきた小ブルジョア知識人か,もしくは農民で,党内には,主観主義,セクト主義,党八股(空疎な形式主義的文風)などの悪風がはびこっていた。この状況に対して,中共は,〈主観主義に反対して学風を整え,セクト主義に反対して党風を整え,党八股に反対して文風を整える〉いわゆる〈三風整頓運動〉を提起した。
このとき中共指導者の念頭にあったのは,スターリンの〈粛清〉であって,それを他山の石とした彼らは,〈批判と自己批判〉という説得の手段によってことを解決しようとした。具体的には,《党の作風を整えよう》《党八股に反対する》などの毛沢東の論文をはじめとする〈整風文献〉を指定し,まずその学習によって認識を統一し,しかるのち批判と自己批判を展開し,最後に自己点検を書く,という筋道がとられた。この全過程を通じて,〈病を治して人を救う〉ことが強調された。かくして,中共はスターリン流の粛清型党建設から一歩脱皮し,開かれた党建設の道を見いだした。これ以後,整風は中共党建設上で不可欠のものとなり,数年に一度は一定期間全党をあげて取り組むキャンペーンとして整風運動がくりひろげられることになった。しかし,文化大革命終息後に明らかにされたところでは,延安時代の整風運動でも,一部には整風に名を借りた行き過ぎた個人攻撃もあったといわれる。
執筆者:吉田 富夫
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…中共は40年,華北で〈百団大戦〉を発動して国民党の対日妥協をけん制したが,日本軍に目標を露呈して集中的継続的な攻撃(治安作戦)を受けることになり,国民政府軍の圧迫とあいまって,41年,42年と抗日根拠地と遊撃戦争は重大な危機に逢着した。中共は毛沢東の指導のもとに大生産運動を展開し,〈精兵簡政〉を徹底させて経済的困難を乗りきり,〈三・三制〉の原則で根拠地の政権を全人民的な基盤にすえ,整風運動を通じて党・軍・民の団結を強め,大衆路線の作風を確立して政治的・軍事的困難を解決し,43年以降,抗日根拠地をふたたび発展させた。 44年から八路軍・新四軍は局部的に反攻に転じ,45年8月9日,ソ連が日本に宣戦し,東北に出兵するや,中共は全国的規模の反攻を呼びかけるとともに,東北に進軍して解放区を拡大した。…
…これまでもそうであったし,これからもそうであろうが,つまり長期共存,相互監督でいくのである〉(〈十大関係を論ず〉1956)と述べた。こうした文脈のうえで,57年4月,中共が,主観主義,セクト主義,官僚主義克服のための整風運動を起こし,党外知識人や民主党派に〈援助〉を求めたとき,〈援助〉を求めたほうも,〈援助〉のため中共に批判を寄せたほうも,その態度は真摯であった。のちに書かれた多くの回想によってみるに,このとき党内外の知識人は,機関や組織のあらゆる単位で中共の欠点を指摘することこそ中共に対する真の支持の表明だと真剣に考え,徹夜で論点をまとめた,という。…
…38年帰国,延安に入ったが,ソ連防衛という“国際”的責務と中国革命の関係および統一戦線における国民党との関係をめぐって,ソ連防衛より中国革命の勝利を第一義的課題であるとして党の指導権を獲得した毛沢東と鋭く対立した。延安の整風運動は,陳紹禹の影響力の一掃をめざしたものである。建国後,党中央委員,人民政治協商会議全国委員,最高法院人民委員などの要職を歴任したのち,病気療養の名目でソ連に入り,以後帰国することなく,この地で病死した。…
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