粤海関(読み)えつかいかん(その他表記)Yuè hǎi guān

改訂新版 世界大百科事典 「粤海関」の意味・わかりやすい解説

粤海関 (えつかいかん)
Yuè hǎi guān

中国の清代,広州におかれた海関。海関には常関旧関)と洋関(新関)とがあり,アヘン戦争以後おかれた洋関もまた粤海関であるが,ふつうはそれ以前の常関をさす。1685年(康熙24),海禁の解除により設置され,中国人の沿海貿易と外国人の朝貢貿易管轄し,海関税を徴収した。外国人からホッポーhoppoとよばれる長官の海関監督は,満人が任命され,役得の多い職であった。その後関税徴収は公行とよばれる特許貿易商が代行し,1720年から外国貿易は広州1港に制限されて,いわゆる広東Canton貿易がはじまる。関税は船税(船鈔,入港税)と貨税(物品税)に大別されるが,正税・付加税のほか多額の非公式礼金を賦課され,これが監督を通じて北京政界をも潤す官僚層の収入源となった。洋関がおかれてからは,外国貿易の発展につれて洋関の重みが増し,反比例して常関の地位はしだいに低下した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「粤海関」の意味・わかりやすい解説

粤海関
えっかいかん

中国、広州(広東(カントン))に置かれた税関。清(しん)朝政府は台湾を根拠にしていた鄭(てい)氏を滅ぼして海禁を解くと、1685年に澳門(マカオ)など4港を開いて対外貿易を許し、広州に粤海関を設けて一帯の監督にあたらせた。正副粤海関監督(外国側はこれをホッポHoppoとよんだ)は、戸部の推薦により直接中央から派遣され、任期は3年を原則とし、おもに満州旗人が任ぜられた。1720年には広州に公行(こうこう)制度を敷いて特許商人にのみ貿易を独占させ、関税の徴集行商に請け負わせた。1757年から外国貿易は広州1港に制限され、1834年に至るまでイギリス東インド会社を主たる貿易相手とする粤海関の全盛期を迎えた。税則は、輸出入税、付加税、船鈔(せんしょう)(量船税)、規礼(贈物)の5項目からなり、輸出入品課税率はそれぞれおよそ従価6%と2%であり、重商主義時代のヨーロッパより低かった。しかし多額の付加税および規礼が恣意(しい)的に課せられ、公行商人の負担は増大し、外国商人との摩擦も少なくなかった。1843年、広州における外国人居留や新税則が制定されて、海関事務は転機を迎えるが、本格的な改革は1859年、広州に外国人税務司制度が導入されてからであった。また粤海関監督も1904年以降は両広総督の管轄へと移行した。

[浜下武志]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「粤海関」の意味・わかりやすい解説

粤海関
えっかいかん
Yue-hai-guan; Yüeh-hai-kuan

中国の広東省広州におかれた税関。清朝海禁が解かれて,康煕 24 (1685) 年に設置され,内外船舶に対し船鈔 (入港税) ,貨税を徴収した。乾隆 22 (1757) 年に外国貿易が広州1港に限定されてから,最も重要な海関となり,その長を監督といい,満人官吏の専任で内務府から派遣され,外国人から Hoppoと呼ばれた。南京条約を経て咸豊9 (1859) 年にいたり洋関 (近代的税関) が新設されると,旧関として国内関税のみをあずかり,昔日の地位を失った (→広東十三行 ) 。

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世界大百科事典(旧版)内の粤海関の言及

【広州】より

…57年ポルトガルが澳門(マカオ)を占領し広州貿易の独占を図ったが,オランダ,イギリス,フランスも続いて進出した。清朝は1685年(康熙24)広州に粤(えつ)海関を設け,官許商人である広東十三行を通してきわめて制限の多い貿易を許し,1757年(乾隆22)には外国貿易を広州にのみ限定した。その時期からイギリスの進出がめざましく,主導権を握るためアヘン戦争をひきおこし,1842年(道光22)南京条約により広州は商埠地として解放され,62年(同治1)租界も設けられる。…

※「粤海関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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