沖縄県沖縄本島の最南端にある市。1908年(明治41)町制施行。1961年(昭和36)兼城(かねぐすく)村、高嶺(たかみね)村、三和(みわ)村と合併、1971年市制施行。方音イチュマン。国道331号が走り那覇(なは)市と連絡する。市の大部分は、琉球(りゅうきゅう)石灰岩に覆われた台地状の地形で、断層によって南に傾く傾動地塊が、喜屋武岬(きゃんみさき)から与座(よざ)岳にかけて数列続く。南端は喜屋武岬や摩文仁断崖(まぶにだんがい)のような高い海食崖になっている。第二次世界大戦前から漁業の町として知られ、漁民は日本近海はもちろん、遠くニューギニア、オーストラリアなどの南方へ出漁し、独特の追込み漁業(アギヤ)で活躍した。第二次世界大戦前の糸満町の人口は約8000人で、男子の大部分は漁業に従事し、女子は漁獲物を那覇へ持って行き、売り歩いた。那覇―糸満間約12キロメートルには1918年(大正7)馬車軌道が通じ、1923年には県営鉄道糸満線が通じた。市の南部は、第二次世界大戦の最後の激戦地であり、沖縄戦終焉(しゅうえん)の地である。この一帯と海岸の自然景観は、沖縄戦跡国定公園に指定されている。国定公園の一部、摩文仁地区の平和祈念公園には、各県の戦没者の慰霊塔や平和祈念堂、平和祈念資料館(1975年開館)などがある。1995年(平成7)には、沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑「平和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。また、平和祈念公園の西方には、ひめゆり平和祈念資料館(1989年開館)がある。
糸満漁港は県唯一の第3種漁港で水産食品加工団地が併設され、また沖縄水産高校もある。現在も伝統の漁業が残っている。農業はサトウキビ、野菜、葉タバコをおもに栽培している。旧糸満町は沖縄本島南部の中心地であり、大規模埋立て事業が進められるなど、新産業文化都市の建設を進めている。名所旧跡として、幸地腹門中(こうちばらもんちゅう)墓、糸満漁夫の守護神を祀(まつ)っている白銀堂、具志川城跡(国指定史跡)などがあり、年中行事としては、旧暦5月4日のハーレー(爬竜船競漕(はりゅうせんきょうそう))や、旧暦8月15日の大綱引がある。面積46.63平方キロメートル、人口6万1007(2020)。
[堂前亮平]
『『糸満市史』全18巻(1982~ ・糸満市)』
沖縄県,沖縄島(本島)南西端,那覇から南へ12kmにある市。1961年隣接の三和,兼城(かねぐすく),高嶺の3村と合体,71年市制。人口5万7320(2010)。旧糸満町は漁業の町で,勇敢な糸満漁夫は,昔から日本本土をはじめフィリピン,マレー半島,ジャワ,スマトラ,セレベス,ボルネオ,ニューギニアなどの海域で〈アギャー〉と呼ぶ独特の追込み漁法で活躍したが,今ではそのかげは薄れた。現在第3種漁港に指定されており,南方漁業の中継基地をめざしている。農業はサトウキビ,野菜,花卉が栽培され,畜産では豚,肉用牛が飼育される。公有水面の広大な埋立てが進み,工業団地とともに,新しい市街地が形成されてきた。名所旧跡に富み,なかでも幸地腹門中墓は沖縄県最大の破風墓といわれ,規模の大きさや構造のみごとなことで知られる。また,氏神をまつってある聖地の白銀堂は参拝者が多い。南端の喜屋武(きやん)岬の断崖上にある具志川城跡は史跡に指定されている。海神祭のハーリーと大綱引は有名。第2次世界大戦最後の激戦地で,黎明の塔,ひめゆりの塔,健児の塔など各種の慰霊塔が立ち,沖縄戦跡国定公園となっている。
執筆者:田里 友哲
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