紀尾井坂の変(読み)きおいざかのへん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀尾井坂の変」の意味・わかりやすい解説

紀尾井坂の変
きおいざかのへん

1878年(明治11)参議兼内務卿(きょう)大久保利通(としみち)が東京・麹町(こうじまち)の紀尾井坂で暗殺された事件西南戦争(1877)の最中に「維新三傑」のなかで、まず木戸孝允(たかよし)が病死し、さらに西郷隆盛(たかもり)が西南戦争で敗北、自決すると、残った大久保は岩倉具視(ともみ)と結び、内務省を中心に独裁体制を敷いた。これに対し、不平士族や士族民権家たちは不満を募らせた。その結果、78年5月14日、大久保は馬車で自邸から赤坂仮皇居へ向かう途中、紀尾井坂で、待ち伏せていた石川県士族島田一郎ら6名に斬殺(ざんさつ)された。その「斬姦(ざんかん)状」には民権の抑圧、国財の乱費など、政府の失政5か条が指摘されていた。急報は天皇や政府支配者に衝撃を与えた。

[石塚裕道]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀尾井坂の変」の解説

紀尾井坂の変
きおいざかのへん

大久保利通(としみち)の暗殺事件。1878年(明治11)5月14日,参議兼内務卿の大久保が太政官に出勤の途中,麹町の紀尾井坂(現,東京都千代田区)で石川県士族島田一良(いちろう)ら不平士族6人に殺害された。島田らは鹿児島私学校の有司専制批判に同調し,西南戦争に呼応しようとしてはたさず,大久保暗殺を企図。斬姦状(ざんかんじょう)には5項目の罪状があげられていた。島田らは斬罪。事件の結果,政局の主導権は伊藤博文ら長州閥に移った。

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百科事典マイペディア 「紀尾井坂の変」の意味・わかりやすい解説

紀尾井坂の変【きおいざかのへん】

1878年5月14日朝大久保利通が東京赤坂紀尾井坂で石川県士族島田一郎(一良),島根県士族浅井寿篤(じゅとく)らに襲撃・暗殺された事件。島田らは西南戦争に呼応しようとして果たさなかった不平士族であった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀尾井坂の変」の意味・わかりやすい解説

紀尾井坂の変
きおいざかのへん

大久保利通」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の紀尾井坂の変の言及

【士族反乱】より

…明治初年,各地でおこった明治政府批判の士族の反乱。一般には,1869年(明治2)末から70年にかけておこった長州藩諸隊の反乱(脱隊騒動)から,78年5月の紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)までの反乱・諸事件をさす(表参照)。しかし長州藩諸隊の反乱は,大楽(だいらく)源太郎らによる士族反乱の側面をもつものの,他の側面では当時の〈世直し〉的潮流,つまり農民一揆と結びつく要素を内包しており,その限りでは,その後の他の士族反乱とは様相を異にしていた。…

【島田一良】より

…藩の洋式兵術練習所壮猶館に学び,戊辰戦争で北越を転戦し,功を認められて徒士より陸軍大尉にまで進級。維新後,西郷隆盛に心服し征韓論決裂とともに辞職し,陸義猶らと金沢に忠告社を創立して西南戦争に呼応しようとしたが果たさず,1878年5月14日長連豪らと斬奸状を携え,内務卿大久保利通を東京紀尾井坂で襲撃(紀尾井坂の変),自首したが7月27日斬罪に処せられた。【後藤 靖】。…

※「紀尾井坂の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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