紀男人(読み)きのおひと

改訂新版 世界大百科事典 「紀男人」の意味・わかりやすい解説

紀男人 (きのおひと)
生没年:682-738(天武11-天平10)

奈良時代の官人貴族。雄人とも書く。麻呂の子,家守の父。705年(慶雲2)従五位下となり,以後少納言,大宰少弐,右大弁等を歴任。738年10月,大宰府で没した。このとき大宰大弐,正四位下であった。721年(養老5)詔により,山田三方山上憶良らとともに,皇太子時代の聖武天皇に侍せしむとあり,漢詩和歌をよくし,《懐風藻》に漢詩3首,《万葉集》に和歌1首を残す。後者は730年(天平2)正月,大宰帥大伴旅人宅の梅花の宴に列して詠んだものである。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「紀男人」の解説

紀男人

没年:天平10.10.30(738.12.15)
生年:生年不詳
男人の漢詩3首を収めた『懐風藻』の「享年五十七」という記述に従えば生年は天武11(682または683)年か。奈良時代の官人。紀麻呂の子。家守の父。慶雲2(705)年12月,従五位下。養老5(721)年1月詔により,山上憶良や山田御方,楽浪河内,紀清人らと共に東宮(のちの聖武天皇)のもとに仕えるよう命じられた。これは東宮教育を担当したものであり,一流の文人であったことを示す。天平2(730)年1月大宰府(太宰府市)の大弐(次官)在任中に大宰府長官大伴旅人宅で開催された梅花の宴で詠んだ歌「正月立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ」が『万葉集』巻5にある。大宰大弐在任中に死去遺骨は骨送使により京に運ばれたことが周防国正税帳に記されている。

(寺崎保広)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀男人」の解説

紀男人 きの-おひと

682-738 奈良時代の官吏
天武天皇11年生まれ。紀麻呂(まろ)の子。養老5年から紀清人(きよひと)らとともに首(おびとの)皇子(聖武(しょうむ)天皇)につかえる。少納言,右大弁をへて正四位下,大宰大弐(だざいのだいに)。「懐風藻」に漢詩3首,「万葉集」巻5に大伴旅人(おおともの-たびと)宅での梅花の宴でよんだ短歌1首をのこす。天平(てんぴょう)10年10月30日死去。57歳。名は雄人ともかく。
【格言など】正月(むつき)立ち春の来らば斯(か)くしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終へめ(「万葉集」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android