紂王(読み)ちゅうおう

精選版 日本国語大辞典 「紂王」の意味・読み・例文・類語

ちゅう‐おう チウワウ【紂王】

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デジタル大辞泉 「紂王」の意味・読み・例文・類語

ちゅう‐おう〔チウワウ〕【紂王】

ちゅう

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紂王」の意味・わかりやすい解説

紂王
ちゅうおう

生没年不詳。中国古代、殷(いん)王朝末代(第30代)の王。帝辛(しん)がその名で、『史記』には「天下にこれを紂と謂(い)う」とあるから、紂とは他称であろう。夏(か)代末王の桀(けつ)とともに、桀紂として悪徳の王の典例とされるが、各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明である。伝えるところでは、知力ともに優れていたが、酒、淫楽(いんがく)、婦人におぼれ、妲己(だっき)を愛してこの言に従った。酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑は、紂の行った悪事の象徴的なことばとされる。甲骨文の記すところによれば、紂のとき、東方(山東方面)に長期の遠征に赴いたおり、その虚をつかれて、西方で勢力を蓄えた周に滅ぼされたとする説もある。周の武王大軍に敗れ、朝歌の鹿台(ろくだい)で、火中に身を投じて死んだ、とされる。没年については、紀元前1122年説、前1028年説のほか異説が多く不明であるが、ほぼ前11世紀後半(前1070~60年前後)のことであったろう。

[松丸道雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紂王」の意味・わかりやすい解説

紂王
ちゅうおう
Zhou-wang; Chou-wang

中国,の最後 (第 30代) の王。前 11世紀頃に三十数年在位。名は受,帝辛とも呼ばれる。紂は諡号。『史記』その他の所伝によれば体力,知力にすぐれたが,妲己 (だっき) を愛して酒池肉林の楽しみにふけり,諫言を退け,民心のそむくところとなり,周の武王討伐にあって王都朝歌の鹿台でみずから火中に投じて死に,殷王朝は滅亡した。いわゆる殷周革命である。後世,夏の桀王 (けつおう) とともに悪虐の王の代表とされるが,各王朝の末王がそのように歪曲されるのは常であり,必ずしも史実とはいえない。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「紂王」の解説

紂王(ちゅうおう)
Zhouwang

?~前1027頃

殷(いん)王朝最後の王。周の武王に滅ぼされた。周代の文献では桀王とともに悪逆無道の君とされる。甲骨文字にみえる帝辛(ていしん)(紂)は才力優れた君主であることを伝えている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「紂王」の解説

紂王
ちゅうおう

?〜前1027ごろ
殷 (いん) の最後の王
名は辛 (しん) 。種々の悪政を行って人望を失い,周の武王に牧野 (ぼくや) の戦いで敗れ,自殺したといわれる。夏王朝最後の桀 (けつ) 王とともに悪逆な王の代表とされ,聖天子の堯 (ぎよう) ・舜 (しゆん) と対比される。

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世界大百科事典(旧版)内の紂王の言及

【武王】より

…父の文王が天命を受け,徳によって諸侯たちを懐(なつ)けたという基礎のうえに,太公望,召公奭(しようこうせき)ら賢臣の補佐をうけ,武王は周族の勢力をさらに伸ばした。盟津に会した際には八百の諸侯が武王のもとにはせ参じたが,なお隠忍自重し,(ちゆう)王の悪徳がきわまり殷王朝の命運が尽きたことを見きわめて,初めて紂王討伐の兵を挙げた。牧野(ぼくや)の戦で殷軍を破り殷の都に攻めこむと紂王は自殺した。…

※「紂王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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