生没年不詳。中国古代、殷(いん)王朝末代(第30代)の王。帝辛(しん)がその名で、『史記』には「天下にこれを紂と謂(い)う」とあるから、紂とは他称であろう。夏(か)代末王の桀(けつ)とともに、桀紂として悪徳の王の典例とされるが、各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明である。伝えるところでは、知力ともに優れていたが、酒、淫楽(いんがく)、婦人におぼれ、妲己(だっき)を愛してこの言に従った。酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑は、紂の行った悪事の象徴的なことばとされる。甲骨文の記すところによれば、紂のとき、東方(山東方面)に長期の遠征に赴いたおり、その虚をつかれて、西方で勢力を蓄えた周に滅ぼされたとする説もある。周の武王の大軍に敗れ、朝歌の鹿台(ろくだい)で、火中に身を投じて死んだ、とされる。没年については、紀元前1122年説、前1028年説のほか異説が多く不明であるが、ほぼ前11世紀後半(前1070~60年前後)のことであったろう。
[松丸道雄]
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?~前1027頃
殷(いん)王朝最後の王。周の武王に滅ぼされた。周代の文献では桀王とともに悪逆無道の君とされる。甲骨文字にみえる帝辛(ていしん)(紂)は才力優れた君主であることを伝えている。
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…父の文王が天命を受け,徳によって諸侯たちを懐(なつ)けたという基礎のうえに,太公望,召公奭(しようこうせき)ら賢臣の補佐をうけ,武王は周族の勢力をさらに伸ばした。盟津に会した際には八百の諸侯が武王のもとにはせ参じたが,なお隠忍自重し,紂(ちゆう)王の悪徳がきわまり殷王朝の命運が尽きたことを見きわめて,初めて紂王討伐の兵を挙げた。牧野(ぼくや)の戦で殷軍を破り殷の都に攻めこむと紂王は自殺した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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