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紂王 ちゅうおう Zhou-wang; Chou-wang

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

紂王
ちゅうおう
Zhou-wang; Chou-wang

中国,の最後 (第 30代) の王。前 11世紀頃に三十数年在位。名は受,帝辛とも呼ばれる。紂は諡号。『史記』その他の所伝によれば体力,知力にすぐれたが,妲己 (だっき) を愛して酒池肉林楽しみにふけり,諫言を退け,民心のそむくところとなり,周の武王の討伐にあって王都朝歌の鹿台でみずから火中に投じて死に,殷王朝は滅亡した。

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デジタル大辞泉の解説

ちゅう‐おう〔チウワウ〕【紂王】

紂(ちゅう)

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大辞林 第三版の解説

ちゅうおう【紂王】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紂王
ちゅうおう

生没年不詳。中国古代、殷(いん)王朝末代(第30代)の王。帝辛(しん)がその名で、『史記』には「天下にこれを紂と謂(い)う」とあるから、紂とは他称であろう。夏(か)代末王の桀(けつ)とともに、桀紂として悪徳の王の典例とされるが、各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明である。伝えるところでは、知力ともに優れていたが、酒、淫楽(いんがく)、婦人におぼれ、妲己(だっき)を愛してこの言に従った。酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑は、紂の行った悪事の象徴的なことばとされる。甲骨文の記すところによれば、紂のとき、東方(山東方面)に長期の遠征に赴いたおり、その虚をつかれて、西方で勢力を蓄えた周に滅ぼされたとする説もある。周の武王の大軍に敗れ、朝歌の鹿台(ろくだい)で、火中に身を投じて死んだ、とされる。没年については、紀元前1122年説、前1028年説のほか異説が多く不明であるが、ほぼ前11世紀後半(前1070~60年前後)のことであったろう。[松丸道雄]

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世界大百科事典内の紂王の言及

【武王】より

…父の文王が天命を受け,徳によって諸侯たちを懐(なつ)けたという基礎のうえに,太公望,召公奭(しようこうせき)ら賢臣の補佐をうけ,武王は周族の勢力をさらに伸ばした。盟津に会した際には八百の諸侯が武王のもとにはせ参じたが,なお隠忍自重し,(ちゆう)王の悪徳がきわまり殷王朝の命運が尽きたことを見きわめて,初めて紂王討伐の兵を挙げた。牧野(ぼくや)の戦で殷軍を破り殷の都に攻めこむと紂王は自殺した。…

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