
(しりがい)なり」とし、肘の省声とするが、丑の省略形とみるのがよい。殷の最後の王である帝辛の諡(おくりな)とされるが、〔書、無逸〕に「殷王受(ちう)の
亂」とあり、他の諸
にも「
王受」とあるので、受がその名、紂は音借の字である。
にして善を捐(す)つるを紂と曰ふ」、〔呂覧、功名、注〕に「仁を賤しみ累多きを紂と曰ふ」とするが、いずれも紂の字義に関しないことである。
紂出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
中国,殷の最後の王である帝辛のこと。受ともいう。前11世紀の人。紂というのはその悪行から人々がつけた呼び名だとされる。暴虐な政治によって殷王朝を滅ぼした。夏の桀(けつ)王と並んで古代の悪王の代表とされる。《史記》殷本紀によれば,その力は猛獣を取りひしぎ,その知は臣下の諫言を言いまかせるといった,人並みはずれた資質を持っていた。妲己(だつき)を愛し〈酒池肉林〉の豪奢な長夜の宴を行ったとされるが,単なる淫乱の君主というよりも,すぐれた資質ゆえに自信過剰となって暴虐を行ったのだとされている。重税を課し,炮烙(ほうらく)の刑などの酷刑を行ったため人心が離反し,周の武王に牧野(ぼくや)の戦で敗れ,宝玉の衣を着て,火に投じて死んだ。なお殷末の卜辞資料によれば,帝辛は積極的に東夷(人方)征伐を行い,山東省一帯の経営に力を注いでいるすきに,西方から攻めこんだ周の軍に都をおとされたものらしい。その時期の甲骨文の書体も謹厳で,淫靡の風はうかがわれない。紂王の悪行とされるものの多くは,後世の付加なのであろう。
執筆者:小南 一郎
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