江戸前期の俳人。姓は山口,名は信章。甲斐国北巨摩郡教来石字山口の郷士の家に生まれた。少年時代父に従って甲府に移り,さらに20歳のころ江戸に出て林家について漢学を修めた。その後しばらく京へも遊学したらしい。俳諧は季吟門と伝えたが,最初の入集は加友撰《伊勢踊》(1668)で,〈江戸山口氏信章〉として5句。1675年(延宝3)5月,江戸下向中の宗因を歓迎する俳席に桃青(芭蕉)とともに出座,以後,翌年には両人で《江戸両吟集》を発行するなど親交を深め,芭蕉らの新風を支持した。79年致仕して上野不忍池畔に隠棲し,85-86年ころ葛飾の阿武に移った。漢学の素養が深く,芭蕉に大きな影響を与えた。その門流は葛飾蕉門(葛飾派)と称する。没後,1735年(享保20)に《とくとくの句合》が出版された。〈目には青葉山郭公(ほととぎす)はつ鰹〉(《江戸新道》)。
執筆者:桜井 武次郎
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江戸前期の俳人。山口氏。名は信章。別号に来雪、松子、素仙堂、蓮池翁。茶道の号として今日庵(こんにちあん)、其日庵(きじつあん)。甲斐(かい)(山梨県)の人。生家は素封家で酒造業を営む。20歳のころ家業を弟に譲り、江戸や京都で、漢学、和歌、書道、俳諧(はいかい)、茶道のほか、謡曲、琵琶(びわ)、香道などを学んだという。一時仕官したらしいが1679年(延宝7)には致仕、初め江戸の上野不忍池(しのばずのいけ)池畔(ちはん)に、のち葛飾(かつしか)に退隠、蕉門(しょうもん)俳人ほか人見竹洞、戸田茂睡(もすい)などとも交流、脱俗清雅の生活を送った。俳諧作品は1667年(寛文7)刊の『伊勢(いせ)踊』に初出。延宝(えんぽう)期(1673~81)には芭蕉(ばしょう)と提携して談林俳人として活躍、さらに天和(てんな)期(1681~84)以後は、その漢学の素養をもって蕉風の成立に貢献した。ただし、その後の句作はあまり多くない。俳風は淡泊温雅。その門流を葛飾蕉門とよぶ。編著に『とくとくの句合(くあわせ)』(1735)、家集に『素堂家集』(子光編と久荘編の2種類)がある。
目には青葉山郭公(やまほととぎす)はつ鰹(がつを)
[堀 信夫]
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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