( [ 一 ]について ) 「二十巻本和名抄‐五」には、「下総国 〈略〉葛餝〈加止志加〉」とある。
東京都北東端、千葉、埼玉の両県に接する区。1932年(昭和7)金町(かなまち)、新宿(にいじゅく)町、奥戸(おくど)町、本田(ほんでん)町、南綾瀬(みなみあやせ)町と水元(みずもと)村、亀青(かめあお)村の7町村が合併して区制施行。江戸川、中川、荒川が流れ、その沖積低地にある。JR常磐線・総武本線、京成電鉄本線・押上(おしあげ)線・金町線・成田空港線、北総鉄道、首都高速道路6号三郷(みさと)線、同中央環状線、国道6号、298号が通る。
江戸時代は水田を主とした農村地帯であったが、水戸街道(現、国道6号)沿いの地で、佐倉街道への分岐点には新宿の宿場町があり、その北方に葛西(かさい)地方の中心地として金町が発達していた。また、柴又(しばまた)は柴又帝釈天(たいしゃくてん)(題経寺(だいきょうじ))の門前町として参詣(さんけい)者を集めていた。関東大震災(1923)後から宅地化、工場化が始まり、とくに第二次世界大戦後は著しく都市化が進展し、従来の近郊農業的景観はみられなくなっている。川沿いに化学、製紙、機械などの工業が発達しているが、南部の四つ木を中心とする地区は玩具(がんぐ)、染色、めっきなどの中小零細工業が集中している。そのなかで金属玩具は国内向けのほか輸出用としても盛んであり、敷地狭隘(きょうあい)のため栃木県壬生(みぶ)町に新しい土地を求めて「おもちゃ団地」を造成した(1963~1970)。奥戸・新宿・水元地区はキャベツ、ホウレンソウ、コマツナなどの葉菜類の栽培が残存し、注連(しめ)飾り作りが農家の副業として江戸時代から続いている。
観光地として、柴又帝釈天と矢切の渡し(やぎりのわたし)、水害防止と農業灌漑(かんがい)用としてつくられた小合溜井(こあいためい)の南岸にある釣りとハナショウブの都立水元公園があり、南部には、江戸中期にその母体がつくられた堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)がある。また小菅(こすげ)の東京拘置所や金町浄水場もある。面積34.80平方キロメートル(一部境界未定)、人口45万3093(2020)。
[沢田 清]
『『新修葛飾区史』(1951・葛飾区役所)』▽『『葛飾区史』上下(1970・葛飾区)』▽『『葛飾区の歴史と史跡・名所・文化財』(1973・葛飾区)』▽『『増補葛飾区史』(1985・葛飾区)』
東京都・千葉県・埼玉県・茨城県にまたがる江戸川流域一帯の古地名。旧郡名。可豆思加、勝鹿、葛餝などと書かれた。『万葉集』にも詠まれた歌枕(うたまくら)の地。古くは下総(しもうさ)国に属し隅田(すみだ)川以東の地をさしていた。中世になり太井(ふとい)川(現江戸川)を境として以東は葛東(かっとう)、以西は葛西(かさい)とよばれ、葛東には下河辺(しもこうべ)氏、葛西には葛西氏の各地方豪族が居住した。その最盛時の勢力範囲は葛飾郡だけでなく、遠く上野(こうずけ)国邑楽(おうら)郡(群馬県)、下野(しもつけ)国都賀(つが)郡(栃木県)、下総国相馬(そうま)郡・猿島(さしま)郡(茨城県・千葉県)に及び、関東平野の中央部を占めていた。江戸時代、葛東は下総葛飾、葛西は武蔵葛飾(むさしかつしか)とよばれ、江戸川をもって境界となした。1871年(明治4)武蔵国葛飾郡は東京府(1943年、東京市と統合して東京都となる)・埼玉県に、下総国葛飾郡は印旛(いんば)県(1873年、木更津(きさらづ)県と統合して千葉県となる)に分属。1875年千葉県葛飾郡のうち北部(のちの西葛飾郡域)が茨城県に、北西部(のちの中葛飾郡域)が埼玉県に移管。1878年から1879年にかけて、郡区町村編制法施行により東京府葛飾郡は南葛飾郡に、千葉県葛飾郡は東葛飾郡に、茨城県葛飾郡は西葛飾郡に、埼玉県の葛飾郡は北葛飾郡と中葛飾郡に改称、分割された。1896年、埼玉県中葛飾郡は同県北葛飾郡に、茨城県西葛飾郡は同県猿島(さしま)郡にそれぞれ編入。かつて開発の遅れた農村地帯であったが、その後は東京の郊外の住宅、工場地帯として都市化が著しい。
[沢田 清]
水原秋桜子(しゅうおうし)の第一句集。1930年(昭和5)4月馬酔木(あしび)発行所刊。全539句を「大和(やまと)の春」「山城(やましろ)の春」などと小題別に配列してある。「蟇(ひき)ないて唐招提寺(とうしょうだいじ)春いづこ」「梨(なし)咲くと葛飾の野はとのぐもり」「高嶺星(たかねぼし)蚕飼(こがい)の村は寝しづまり」などの秀作を集め、流麗にして叙情性豊かな名句集であり、好評であった。「序」で秋桜子は、自分は「自然を尊びつゝも尚(な)ほ自己の心に愛着を持つ態度」の作者であり、調べをたいせつにすると述べている。これは当時客観写生を主唱していた師高浜虚子(きょし)を念頭に置いての主張と考えられ、翌年の秋桜子の『ホトトギス』離脱の伏線となり、独立した『馬酔木』の基本態度となった。
[平井照敏]
『『葛飾』(1975・東京美術)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…28年,昭和医専の教授となる。30年には第1句集《葛飾》を上梓,みずみずしい抒情世界は青年俳人を魅了し,新興俳句の口火となり,石田波郷,加藤楸邨らの俳人を育てた。しかし主観や抒情を重んじる傾向は虚子の客観写生と対立,31年主宰誌《馬酔木(あしび)》に論文〈自然の真と文芸上の真〉を発表して《ホトトギス》を離脱した。…
※「葛飾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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