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一茶 イッサ

百科事典マイペディアの解説

一茶【いっさ】

江戸後期の俳人。姓は小林,名は弥太郎。信濃国水内郡柏原(かしわばら)村の貧農の長男として生まれる。江戸に出て奉公し,俳諧は,25歳ごろには葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に学んでいる。
→関連項目成美村上鬼城

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デジタル大辞泉プラスの解説

一茶

藤沢周平の伝記小説。1978年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説

いっさ【一茶】

1763‐1827(宝暦13‐文政10)
江戸後期の俳人。姓は小林,名は弥太郎。圯橋,菊明,雲外などの号がある。信濃国水内郡柏原村の農業弥五兵衛・妻くにの長男として生まれる。3歳で母を失い,8歳の時から継母に育てられたが折合いが悪く,内向的で孤独な性質が養われた。〈我と来て遊べや親のない雀〉は,そのころを追想した吟である。14歳のおり,江戸へ奉公に出る。俳諧は,初め葛飾派二六庵竹阿に学び,1787年(天明7)25歳の時,秘書《白砂人(はくさじん)集》を書写

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一茶
いっさ

小林一茶」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

一茶
いっさ
(1763―1827)

江戸時代の文化・文政期(1804~30)に活躍した俳諧師(はいかいし)。本名は小林弥太郎。北信濃(きたしなの)の柏原(かしわばら)(北国(ほっこく)街道の宿場町。長野県信濃町)に生まれる。15歳(数え年)で江戸に出たが、晩年は生地に帰住した。父の弥五兵衛は伝馬屋敷一軒前(てんまやしきいっけんまえ)の中の上の本百姓。3歳で母くにを失い、継母さつがきて、義弟専六(せんろく)(のちに弥兵衛)が生まれたことが、離郷の原因とみられている。29歳で葛飾(かつしか)派(江戸俳諧の一派で田舎(いなか)風が特色)の執筆(しゅひつ)になるが、それまでの事情はほとんど不明。この年帰郷しのちに『寛政(かんせい)三年紀行』にまとめるが、それ以後のことは一茶自身の日録風の句文集(『七番日記』など)などにより承知できる。一茶はメモ魔のごとく記録をとっている。
 寛政4年から6年間(1792~98)、亡師竹阿(ちくあ)の知人門弟を頼りに、京坂、四国・中国の内海側、九州北半分(長崎まで)を遍歴し、五梅(ごばい)(観音寺)、樗堂(ちょどう)(松山)、升六(しょうろく)、大江丸(おおえまる)(大坂)、闌更(らんこう)(京都)などの有力俳諧師に接し、読書見聞の記録を残す。西国修業の旅だった。しかし、江戸に帰っても宗匠(そうしょう)にはなれない。そのため、葛飾派関係の人の多い、下総(しもうさ)(千葉県北部と茨城県の一部)、上総(かずさ)(千葉県中央部)を歩き回って、巡回俳諧師として暮らすしかなかった(「わが星は上総の空をうろつくか」)。39歳のとき父死去(のちに『父の終焉(しゅうえん)日記』を書く。「父ありて明(あけ)ぼの見たし青田原(あおたはら)」)。そして、「椋鳥(むくどり)」(冬季出稼ぎ人の綽名(あだな))とからかわれ、支持者夏目成美(せいび)(札差(ふださし)で著名俳人)との心の通いもしっくりしない江戸暮らしに、ますます孤独を覚え(「江戸じまぬきのふしたはし更衣(ころもがえ)」)、やがて、頑健な体にも衰えを感じ始めて、巡回旅の不安定が身にしみてくる(「秋の風乞食(こじき)は我を見くらぶる」)。かくして、柏原帰住を決意した一茶は、江戸と柏原の間を6回も往復して、ついに継母義弟に、父の遺言どおりの財産折半を実行させる。また帰住前後を通じて、長沼(現長野市)の春甫(しゅんぽ)、魚淵(なぶち)、紫(むらさき)(現高山村)の春耕(しゅんこう)、中野(現中野市)の梅堂(ばいどう)、湯田中(ゆだなか)(現山ノ内町)の希杖(きじょう)をはじめ、柏原周辺から千曲(ちくま)川両岸にわたる地域の力ある門弟を多数得る。50歳で帰住(「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」)。52歳で結婚(初婚)。門弟のところを回り歩き、ときには江戸に出て、親友の一瓢(いっぴょう)、松井(まつい)、さては利根(とね)川畔の鶴老(かくろう)の寺に泊まったりしているが、3男1女の全部を失い、妻きくまで失う。後妻ゆきとも3か月で離婚。やをを妻に迎えたのもつかのま、その翌年は大火にあって、土蔵暮らしとなり、文政10年11月19日、三度目の中風で死ぬ。娘やたは次の年に生まれた。それでも、最初の中風回復のあとは、「今年から丸まうけぞよ娑婆遊(しゃばあそ)び」とか、「荒凡夫(あらぼんぷ)」などと書いたりして、自由勝手な生きざまに徹し、「花の影寝まじ未来が恐ろしき」とつくって、いつまでも生きたいと願っていたのである。柏原に一茶旧宅(国指定史跡)がある。[金子兜太]
『『一茶全集』8巻・別冊1(1976~78・信濃毎日新聞社) ▽小林計一郎著『小林一茶』(1961・吉川弘文館) ▽丸山一彦著『小林一茶』(1964・桜楓社) ▽栗山理一著『日本詩人選19 小林一茶』(1970・筑摩書房) ▽金子兜太著『小林一茶』(講談社現代新書)』

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世界大百科事典内の一茶の言及

【おらが春】より

…俳文発句集。一茶の遺稿。没後25年の1852年(嘉永5),信州の白井一之が,山岸梅塵家伝来の真跡を譲られて逸淵序と四山人・西馬の跋を添え,模刻刊行。…

【歯槽膿漏】より

…〈口の歯みなゆるぎて,すこしもこはきものなどは,かみわるにおよばず〉というから,これは歯槽膿漏である。江戸時代の俳人小林一茶も,最後の歯が〈めりめりとぬけおちぬ〉と記しているが,これも歯槽膿漏に侵されていたと思われる。【立川 昭二】。…

【媚薬】より

…また,陰部に薬を塗られた常盤(ときわ)御前が淫欲高まって平清盛に身をまかせながら子どもたちの助命をとりつけた話(黒沢翁満《藐姑射秘言(はこやのひめごと)》)とか,尼将軍政子が腎虚になったので淫羊藿(いんようかく)(強精の効によって陰茎が怒るほど勃起するというので和名を〈イカリソウ〉という)に男女の淫水2升を混ぜる丹薬を造るため,若侍と御殿女中各100人がいっせいに交わる話(平賀源内《長枕褥合戦》)などもある。 他方,まじめだが内容がすごいのは,俳人小林一茶が自分たち夫婦の性交をきちょうめんに記録した《七番日記》や《九番日記》である。52歳で24も若い妻を娶った彼は,日夜性交に励んで1日3回は普通のこと,多い日は5回で1週間に22回ということもあった。…

※「一茶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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