江戸時代の文化・文政期(1804~30)に活躍した俳諧師(はいかいし)。本名は小林弥太郎。北信濃(きたしなの)の柏原(かしわばら)(北国(ほっこく)街道の宿場町。長野県信濃町)に生まれる。15歳(数え年)で江戸に出たが、晩年は生地に帰住した。父の弥五兵衛は伝馬屋敷一軒前(てんまやしきいっけんまえ)の中の上の本百姓。3歳で母くにを失い、継母さつがきて、義弟専六(せんろく)(のちに弥兵衛)が生まれたことが、離郷の原因とみられている。29歳で葛飾(かつしか)派(江戸俳諧の一派で田舎(いなか)風が特色)の執筆(しゅひつ)になるが、それまでの事情はほとんど不明。この年帰郷しのちに『寛政(かんせい)三年紀行』にまとめるが、それ以後のことは一茶自身の日録風の句文集(『七番日記』など)などにより承知できる。一茶はメモ魔のごとく記録をとっている。
寛政4年から6年間(1792~98)、亡師竹阿(ちくあ)の知人門弟を頼りに、京坂、四国・中国の内海側、九州北半分(長崎まで)を遍歴し、五梅(ごばい)(観音寺)、樗堂(ちょどう)(松山)、升六(しょうろく)、大江丸(おおえまる)(大坂)、闌更(らんこう)(京都)などの有力俳諧師に接し、読書見聞の記録を残す。西国修業の旅だった。しかし、江戸に帰っても宗匠(そうしょう)にはなれない。そのため、葛飾派関係の人の多い、下総(しもうさ)(千葉県北部と茨城県の一部)、上総(かずさ)(千葉県中央部)を歩き回って、巡回俳諧師として暮らすしかなかった(「わが星は上総の空をうろつくか」)。39歳のとき父死去(のちに『父の終焉(しゅうえん)日記』を書く。「父ありて明(あけ)ぼの見たし青田原(あおたはら)」)。そして、「椋鳥(むくどり)」(冬季出稼ぎ人の綽名(あだな))とからかわれ、支持者夏目成美(せいび)(札差(ふださし)で著名俳人)との心の通いもしっくりしない江戸暮らしに、ますます孤独を覚え(「江戸じまぬきのふしたはし更衣(ころもがえ)」)、やがて、頑健な体にも衰えを感じ始めて、巡回旅の不安定が身にしみてくる(「秋の風乞食(こじき)は我を見くらぶる」)。かくして、柏原帰住を決意した一茶は、江戸と柏原の間を6回も往復して、ついに継母義弟に、父の遺言どおりの財産折半を実行させる。また帰住前後を通じて、長沼(現長野市)の春甫(しゅんぽ)、魚淵(なぶち)、紫(むらさき)(現高山村)の春耕(しゅんこう)、中野(現中野市)の梅堂(ばいどう)、湯田中(ゆだなか)(現山ノ内町)の希杖(きじょう)をはじめ、柏原周辺から千曲(ちくま)川両岸にわたる地域の力ある門弟を多数得る。50歳で帰住(「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」)。52歳で結婚(初婚)。門弟のところを回り歩き、ときには江戸に出て、親友の一瓢(いっぴょう)、松井(まつい)、さては利根(とね)川畔の鶴老(かくろう)の寺に泊まったりしているが、3男1女の全部を失い、妻きくまで失う。後妻ゆきとも3か月で離婚。やをを妻に迎えたのもつかのま、その翌年は大火にあって、土蔵暮らしとなり、文政10年11月19日、三度目の中風で死ぬ。娘やたは次の年に生まれた。それでも、最初の中風回復のあとは、「今年から丸まうけぞよ娑婆遊(しゃばあそ)び」とか、「荒凡夫(あらぼんぷ)」などと書いたりして、自由勝手な生きざまに徹し、「花の影寝まじ未来が恐ろしき」とつくって、いつまでも生きたいと願っていたのである。柏原に一茶旧宅(国指定史跡)がある。
[金子兜太]
『『一茶全集』8巻・別冊1(1976~78・信濃毎日新聞社)』▽『小林計一郎著『小林一茶』(1961・吉川弘文館)』▽『丸山一彦著『小林一茶』(1964・桜楓社)』▽『栗山理一著『日本詩人選19 小林一茶』(1970・筑摩書房)』▽『金子兜太著『小林一茶』(講談社現代新書)』
江戸後期の俳人。姓は小林,名は弥太郎。圯橋,菊明,雲外などの号がある。信濃国水内郡柏原村の農業弥五兵衛・妻くにの長男として生まれる。3歳で母を失い,8歳の時から継母に育てられたが折合いが悪く,内向的で孤独な性質が養われた。〈我と来て遊べや親のない雀〉は,そのころを追想した吟である。14歳のおり,江戸へ奉公に出る。俳諧は,初め葛飾派二六庵竹阿に学び,1787年(天明7)25歳の時,秘書《白砂人(はくさじん)集》を書写。当時,今日庵元夢の執筆(しゆひつ)をつとめた。一茶作品の初出は,翌年刊の安袋(元夢)編《俳諧五十三駅》である。91年(寛政3)に15年ぶりに帰省し,《帰郷日記》を著述。翌春江戸をたって関西西国筋へ俳諧修業に出かけ,旅中最初の撰集《たびしうゐ》や《さらば笠》を編み,また闌更,重厚,大江丸,升六等と交わる。7年に及ぶ行脚を終えて江戸に戻った彼は,洒脱な作風で俳壇に知られるに至った。しかし都会の風はなお田舎者一茶に冷たく,夏目成美の庇護を受けてようやく生計を立て,房総筋の知人宅に寄宿を重ねる流浪の生活であった。1801年(享和1)久しぶりに帰郷して父の死にあい,《父の終焉日記》を著述。その後義弟と遺産分配をめぐって争う。10年余を経た13年(文化10)にようやく和解して故郷に落ち着き,その感慨を〈是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺〉と詠んだ。52歳で結婚したが妻子を相次いで失う。長女の死を記念して悲喜転変の思いを綴った《おらが春》は,彼の最高傑作として名高い。再婚に破れ,3度妻をめとった。死の直前には家を焼失,苦渋に満ちた過酷な生涯であった。文政10年11月19日没。不遇な境涯に発想して特異性を発揮する一茶の作品は,芭蕉・蕪村の流れからはみ出したすね者の俳諧である。彼は筆録を好み,日々の所感を認めたおびただしい数の句日記や撰集類を残し,現存する一茶の句は2万句に近い。〈椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉〉(《八番日記》)。
執筆者:石川 真弘
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1763.5.5~1827.11.19
江戸中・後期の俳人。小林氏。幼名弥太郎,名は信之。信濃国水内(みのち)郡柏原の人。3歳で生母に死別し,15歳で江戸へでて奉公。竹阿(ちくあ)・元夢(げんむ)・素丸らに師事。1791年(寛政3)4月帰郷,翌年4月から京坂・四国・九州地方を6カ年におよび俳諧行脚,「西国紀行」「旅拾遺」「さらば笠」を編む。1801年(享和元)帰郷,父没。継母・異母弟と遺産相続をめぐり対立,13年(文化10)和解して,故郷に定住。翌年52歳で初婚,3男1女を得たがすべて早世。19年(文政2)長女さとの死を悼み,「おらが春」を編む。23年妻没。その後再婚,1年をへずして離婚,再々婚で1子を得る。27年柏原大火で家屋を失い,焼け残りの土蔵のなかで中風のため没。「七番日記」など句日記も多く残す。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…〈口の歯みなゆるぎて,すこしもこはきものなどは,かみわるにおよばず〉というから,これは歯槽膿漏である。江戸時代の俳人小林一茶も,最後の歯が〈めりめりとぬけおちぬ〉と記しているが,これも歯槽膿漏に侵されていたと思われる。【立川 昭二】。…
…また,陰部に薬を塗られた常盤(ときわ)御前が淫欲高まって平清盛に身をまかせながら子どもたちの助命をとりつけた話(黒沢翁満《藐姑射秘言(はこやのひめごと)》)とか,尼将軍政子が腎虚になったので淫羊藿(いんようかく)(強精の効によって陰茎が怒るほど勃起するというので和名を〈イカリソウ〉という)に男女の淫水2升を混ぜる丹薬を造るため,若侍と御殿女中各100人がいっせいに交わる話(平賀源内《長枕褥合戦》)などもある。 他方,まじめだが内容がすごいのは,俳人小林一茶が自分たち夫婦の性交をきちょうめんに記録した《七番日記》や《九番日記》である。52歳で24も若い妻を娶った彼は,日夜性交に励んで1日3回は普通のこと,多い日は5回で1週間に22回ということもあった。…
※「一茶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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