改訂新版 世界大百科事典 「紡績連合会」の意味・わかりやすい解説
紡績連合会 (ぼうせきれんごうかい)
日本の紡績業者の連合体。1882年10月,官営愛知紡績所所長岡田令高の提唱によって2000錘規模の紡績関係者により結成された。新設工場のための技術伝習の引受けや職工引抜き禁止などを取り決めているが,勧業政策の下請機関という色彩が強かった。しかし1万錘規模の紡績会社の勃興にともなって,88年大日本綿糸紡績同業連合会と改称したころから,紡績資本の自立的組織となって活動もきわめて活発となった。内部的には,ストライキ対策を取り決めるとともに,職工引抜きをめぐる紛争を処理するため92年に中央綿糸紡績業同盟会を組織し,〈明治23年(1890)恐慌〉に際しては短期間ながら操業短縮を実施した。対外的には,綿花輸入・綿糸輸出関税撤廃のために帝国議会,政府に対して請願運動を展開してこれを実現し,また日本郵船のボンベイ航路開設(1893)に際してはインド綿積取契約を結んで運賃の一部割戻しを実施させた。1900年にはかなりの期間の操業短縮を行うようになり,02年に大日本紡績連合会(紡連)と改称したころから,カルテルとしての性格を強めた。日露戦後恐慌(1907-08)以来,操短は全綿糸を対象に長期化するとともに,綿糸布輸出に奨励金や操短免除特権が与えられるようになり,ここに国内機業者に対する独占価格の押付けとダンピング輸出とが結びつけられるようになった。棉花栽培協会(朝鮮,1905設立)に財政補助を行うなど植民地綿作に関与する一方,中国の綿糸輸入関税引上げに反対する運動を展開し,また工場法改正による深夜業禁止を遅らせるべく活動した。他業種のカルテルに比べて紡績連合会の内部結束力は強かったが,紡績業における独占の展開にともなって操短にも大会社の利害が強く反映されるようになっていった。戦時統制が開始されると自治的統制機関として活動したが,42年綿スフ統制会が発足すると統制機能を失って10月に解散し,後継団体として東亜繊維工業会が結成された。戦後には48年4月に日本紡績協会が発足し現在に至っている。
執筆者:高村 直助
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報