紫村(読み)ちくしむら

日本歴史地名大系 「紫村」の解説

紫村
ちくしむら

[現在地名]筑紫野市筑紫・筑紫駅前通ちくしえきまえどおり一―二丁目

諸田もろた村の南にあり、北東境を宝満ほうまん川が南東へ流れる。対岸下見したみ村、西は萩原はぎわら村。長崎街道が北東から南西へ通る。古くは原田はるだ村と一村であったという(続風土記)

嘉吉元年(一四四一)八月二四日の少弐教頼安堵状写(筑紫古文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)によれば「三笠郡筑紫村地頭職并庄分」などが筑紫下野入道に安堵されており、筑紫氏の本領として相伝される名字の地であった(永正九年閏四月一五日「杉興長書下」満盛院文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)。いっぽう「征西大将軍宮譜」によれば、南朝方の武将宗重澄は正平一五年(一三六〇)七月「筑紫大原」で負傷しており、南北朝期に当地付近が合戦場となっていたらしい。その後、明応六年(一四九七)三月二〇日の大内義興感状(三浦家文書/大日本古文書一四)によれば、三月一五日に「筑紫村并城山」で合戦があり、その際の仁保護郷の戦傷が義興より賞されている。


紫村
むらさきむら

[現在地名]国分寺町国分こくぶ

南流するおもい川・姿すがた川に西と東を挟まれた舌状に延びる台地先端の東側にある。東は姿川を隔て川中子かわなご村、西から南にかけては飯塚いいづか宿(現小山市)、北は国分村。文明九年(一四七七)八月二〇日府中国分寺一結講衆から日光山満願まんがん(現日光市)へ進められた法華経の奥書に「小山庄村崎」とある(大日本史料八―一〇)。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分として「むらさき」とあり、小山領から伊勢内宮佐八掃部大夫へ届けられた伊勢役銭のうち六〇〇文を負担している。当地は小山領の北端にあたり、宇都宮氏・壬生氏の勢力との接点にあったといえる。


紫村
むらさきむら

[現在地名]筑紫野市紫一―七丁目・紫・二日市北ふつかいちきた一丁目・同四丁目・同八丁目・二日市中央ふつかいちちゆうおう三―四丁目

二日市村の南、鷺田さぎた支流高尾たかお川流域の平野部にある。日田街道北西から南東へ通る。中世紫田むらさきだ庄・紫庄の遺称地。小早川時代の指出前之帳では紫村の田三四町八反余(分米三二二石余)・畠五町余(分大豆三二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は四一九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高四二七石余、家数三一・人数一四九(田圃志)


紫村
つくしむら

[現在地名]東員町筑紫

員弁川の北、支流のふじ川・弁天べんてん川の間に位置する。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳に、花坊の知行地として「いなへつくしの郷」がみえる。江戸時代を通じて桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)・元禄郷帳ともに村高二二七・五五八石で、文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳や天保郷帳の三六一・〇四二石との間にかなりの増加がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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