カピチュレーション(英語表記)capitulations

改訂新版 世界大百科事典 「カピチュレーション」の意味・わかりやすい解説

カピチュレーション
capitulations

生命・財産の安全,治外法権領事裁判権,免税)などの保障を在留外国人に特権的に認めることを定めた国際的条約。ヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ諸国との間に広く成立した。イスラム諸国では,9世紀にアッバース朝フランク王国に対してこの特権を与えたのが最初といわれる。12世紀以後,イタリア諸都市が西アジア・北アフリカ各地のイスラム諸王朝よりこの特権を得てから一般化した。16世紀前半にオスマン帝国が,イランを除く西アジア・北アフリカを統一し,フランス(1536),イギリス(1579),オランダ(1613)にこの特権を認めると,カピチュレーションは,中東とヨーロッパとの間の地中海貿易を規定する基本的条約の性格を獲得した。イランも17世紀以後イギリスなどに同様の特権を認めた。カピチュレーションは,船舶の修理,災害時の救助活動,海賊からの商船の保護と保障などに関して,相手国との双務関係を定める場合もあるが,全体としては,オスマン帝国のスルタンが相手国に与える恩恵的な特権の性格が強い。したがって,この条約の有効期間は明記されず,また,スルタンが代わるたびに新たな認可を必要とした。こうした特権授与は,当時の中東とヨーロッパとの貿易が中東に有利であった事情を反映しているが,オスマン帝国の側でも,それによって相手国の好意を取り付けて国際政治関係を有利に導こうとする政治的意図や,通商活動を活発にすることによって関税収入を増大させようとする経済的・財政的意図があった。18世紀以後,中東とヨーロッパとの貿易関係が逆転し,オーストリア,ロシア,アメリカなどの新興諸国もこの特権を獲得すると,カピチュレーションは,ヨーロッパ諸国による中東侵略の有力な手段に変わった。1923年にトルコ共和国はローザンヌ条約によってオスマン帝国のカピチュレーションを廃止し,イランもまた,28年にイギリスに対するこの特権を廃棄し,エジプトでは37年に解消した。

 また,領事裁判権,治外法権などの条項は,19世紀中葉以降,東アジアへの侵略を始めた欧米諸国が,中国,日本などと条約を締結する際に要求するところとなり,その結果,日本と中国において〈不平等条約〉の改正・撤廃は,中東の諸国と同様に,焦眉の政治課題となった(条約改正)。明治前期の日本で,ヨーロッパ列強支配下にあるエジプトなど中東諸国の法制について大きな関心が払われたのはこのためである。
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百科事典マイペディア 「カピチュレーション」の意味・わかりやすい解説

カピチュレーション

一般に自国内の外国人に与える外交上の法的特権。多く複数形capitulationsで用いる。元来は非キリスト教国(特にイスラム教国)が自国内のキリスト教徒保護と貿易促進のためにとったもので,起源は9世紀アッバース朝までさかのぼり得るという。転じてオスマン帝国が欧州諸国との条約で供与した特権。本来の限界を越えて領事裁判権に象徴される治外法権を意味する。近代のエジプトや中国などがヨーロッパ諸国に与えたのも同種のもので,日本でも幕末〜明治初期の諸条約中にあったが,条約改正で消滅。
→関連項目聖地問題領事裁判

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カピチュレーション」の解説

カピチュレーション
capitulation

オスマン帝国時代にヨーロッパ諸国に与えられた特権を意味する用語。語源的にはラテン語のカピトゥラに由来する。これにより当該国の国民は,オスマン帝国領内での居留の自由,通商の自由,住居の不可侵などが認められた。最初のカピチュレーションは,1535年スレイマン1世によってフランスに与えられ,順次イギリス,オランダその他の国々にも及んだ。オスマン帝国の衰退とともに,この特権は本来の趣旨を越えて裁判管理権や非課税権などを含む治外法権に転化した。第一次世界大戦後,民族主義の高まりによって撤廃が主張され,トルコでは1923年ローザンヌ条約で,シリア,パレスチナでは委任統治国により,イラクでは23年の国際協約で,イランでは28年に,エジプトでは37年モントルー会議の結果,廃止された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カピチュレーション」の解説

カピチュレーション
capitulation

中東諸国がヨーロッパ諸国に認めた治外法権。領事裁判権,租税免除,公立施設を含む居留区の占有などをおもな内容とする
起源は9世紀にアッバース朝のハールーン=アッラシードがフランク王国人に通商の便宜上認めた協約にあるという。ビザンツ帝国や十字軍の諸侯国も,これをイタリア諸都市に与え,貿易活動を保護した。オスマン帝国においてはスレイマン1世がフランスのフランソワ1世と1535年に条約を結んだのが始まりで,のちイギリス・ロシアなどの諸国も締結し,中東侵略の先端をつくった。第一次世界大戦後,セーヴル条約では存続したが,ローザンヌ条約で廃止。エジプト・中国・日本などに列強が要求した治外法権も同じ性格のものである。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カピチュレーション」の意味・わかりやすい解説

カピチュレーション
capitulations

通商特権。 12世紀頃からオスマン帝国など東方諸国においてヨーロッパ諸国の領事が国家組織の弱体,文化の相違などから,自国人の生命・財産保護を行なったことに端を発し,次第に先進国の側から,自国人の生命,財産を発展途上国の裁判にゆだねることを危険として,この制度が要求された。しかし,この制度は発展途上国の反発を招き,国際社会の発達に従い 19世紀末から次第に姿を消していった。日本でも安政5 (1858) 年の安政五ヵ国条約によって領事裁判権が設けられたが,1899年の条約改正によって撤廃された。しかし,中国における同権の撤廃運動は第2次世界大戦中まで続けられた。

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世界大百科事典(旧版)内のカピチュレーションの言及

【イスタンブール】より

…市場監督官)に従属した。ただ国際的商業にたずさわる大商人はその枠外にあって特権的貿易を享受したが,そうした特権はしばしば非ムスリム商人や外国人商人に与えられた(カピチュレーション)。 宮廷の王子たちの割礼式,犠牲祭などの祝祭日には,100種以上にのぼるギルドが実演をしながら行進し,またビザンティン時代の競馬場跡地にあたる〈馬の広場At Meydanı〉や〈肉の広場〉(現,アクサライ地区),〈矢の広場Okomeydanı〉などでは,レスリング,軽業,奇術,道化,馬術競技,弓道大会などが開かれ,宮廷人,高官,ウラマー,民衆がこぞってこれらを楽しんだ。…

【オーストリア・トルコ戦争】より

…16世紀初めから18世紀末まで断続的に行われた両国間の武力衝突の総称。オスマン帝国は15世紀にバルカン半島を征服したのち,フランス,イギリス等にカピチュレーションをあたえることによりヨーロッパ諸国と外交関係を結んだが,オーストリアとロシアにたいしてはそのような関係をもたず,武力による紛争解決の方法がとられた。オスマン帝国の中部ヨーロッパへの攻撃は,スレイマン1世の治世に始まる。…

【オスマン帝国】より

…その中心地イスタンブールは,16世紀末には75万前後の人口を擁する巨大な交易地となった。帝室財政はそれによる交易利潤に大きく依存していたから,スルタンは,香料,各種織物,ブドウ酒などの国際商品取引を円滑にするために,外国人商人に通商特権(カピチュレーション)を与えるなど開放的商業政策をおこなった。その結果,イスタンブールを中心とした広大な商業圏が成立した(パクス・オトマニカ)。…

※「カピチュレーション」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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