聚楽町(読み)じゆらくまち

日本歴史地名大系 「聚楽町」の解説

聚楽町
じゆらくまち

[現在地名]東区粉川こかわ

追手おうて町の南に東西に延びる両側町で、東は南谷みなみたに町。中央を南北善安ぜんなん筋が通る。山城伏見ふしみから移った町で、北聚楽きたじゆらく町一丁目と称した(初発言上候帳面写)。明暦元年(一六五五)の水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)には北聚楽町一丁目、同年の大坂三郷町絵図には北十楽きたじゆうらく町一丁目とある。当町付近の古町名で聚楽の付くものに北聚楽町二丁目(粉川町)中聚楽なかじゆらく(神崎町)・南聚楽町(駿河町)・西聚楽町(松山町)がある。聚楽の名は慶長(一五九六―一六一五)の初め京師聚楽第を移したという伝承にちなみ(摂津名所図会大成)、聚楽御殿は後年加賀前田家へ下されて元和(一六一五―二四)頃まであったが、大坂の陣で焼亡したという(摂陽奇観)。町名変更の際当町のみが聚楽町を称した理由は不明だが、そのため「聚楽館古蹟、南谷町の東聚楽町をいふ」(摂津名所図会)とされた。


聚楽町
じゆらくまち

ほり川が西行から南行へ直角に曲がる角の北の町。聚楽町の西に聚楽一丁目、その北に聚楽二丁目がある。これらの聚楽という文字を付した町名は、上神泉苑かみしんせんえん町や下神泉苑町、東朱雀ひがしすじやく町や西朱雀町の神泉苑や朱雀を付した町名と同じく、京都との密接なつながりを示すものである。聚楽廻り(現中京区)・神泉苑付近(現中京区)朱雀村(現下京区)から伏見城下町の郊外に移住してきた集団が、もとの居住地名をとって町名にしたものと思われる。


聚楽町
じゆらくちよう

上京区千本通二条下ル

南北に通る千本せんぼん通に西面する西側町で、町の東は土屋町つちやまち通。平安京大内裏「朝堂院」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世は京都所司代の用地で、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図では「御蔵屋敷」、慶応四年(一八六八)改正京町御絵図細見大成には「御米蔵」とある。明治三年(一八七〇)民有地となり、同八年現町名となった(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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