日本大百科全書(ニッポニカ) 「自由劇場運動」の意味・わかりやすい解説
自由劇場運動
じゆうげきじょううんどう
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを中心に世界的に広がった演劇革新運動。演劇史的には近代劇運動の一環をなすもので、自然主義演劇や小劇場運動、日本の新劇運動などとも深いつながりがある。名称は、フランスのアマチュア劇団名に由来する。パリでガス会社の集金係をしていたアントアーヌは、当時進歩的論陣を張っていたゾラの自然主義演劇理念に触発され、ゴンクールやゾラの門下生らの支援のもとに、1887年同志とともに「自由劇場」Théâtre Libreを創立し、商業主義演劇の打破、写実主義演劇の確立などを旗印に掲げた。この劇団は会員制による少人数の月1回の試演を原則として、イプセン、ストリンドベリ、ハウプトマンなどの近代戯曲をはじめ、アンリ・ベック、ウージェーヌ・ブリュー、フランソア・ド・キュレルなどの自国の新進作家を世に送り出し、1896年の閉場まで演劇革新のメッカとして活動した。
アントアーヌの実験はたちまち全ヨーロッパに波及し、1889年、ドイツのブラームらがベルリンに「自由舞台」Freie Bühneを設立、とくにハウプトマンの『日の出前』『織工(おりこ)』をはじめとする自然主義戯曲の推進に力を尽くした。この運動に付随してつくられた観客組織は、「フォルクスビューネ(民衆舞台)」Volksbühneとして今日まで続いている。さらにイギリスにおいては1891年、ジェイコブ・グラインによってロンドンに「独立劇場」Independent Theatreが設立され、イプセンなどの外国作家の紹介とともに、バーナード・ショー、ゴールズワージーなどの自国作家登場の道を開いた。日本の近代劇運動に直接の影響を与えた「ステージ・ソサエティ(舞台協会)」Stage Societyは、この理念を継いだものである。ついで1898年には、ロシアのスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコによる「モスクワ芸術座」が旗揚げし、とくにゴーリキー、チェーホフの作品を中心とする上演活動は、各国の演劇革新のなかでもっとも目覚ましい芸術的成果をあげた。さらにまた1891年、イエーツとグレゴリー夫人によって樹立された「アイルランド文芸劇場」(後の「アイルランド劇団」)は、シング、オケーシーなどの劇作家を出してアイルランド国民演劇の基礎をつくった。また、この劇団のアメリカ巡演に刺激されて、「プロビンスタウン劇団」をはじめとするアメリカの小劇場活動が活発化するなど、自由劇場運動は20世紀演劇の誕生と方向づけに多大な影響を及ぼしている。
日本における自由劇場運動は、1909年(明治42)、イギリスを中心とするヨーロッパの演劇視察旅行から帰国した2世市川左団次が小山内薫(おさないかおる)とともに「自由劇場」を創設し、同年、旗揚げにイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』〔森鴎外(おうがい)訳〕を上演したのに始まる。以後、ゴーリキー、ハウプトマンなどの外国戯曲の本格的紹介とともに、日本の新進作家の戯曲を次々と取り上げ、坪内逍遙(しょうよう)、島村抱月(ほうげつ)らの「文芸協会」と並んで、日本における近代劇推進のための一大原動力となった。これは新劇運動の先駆となったばかりでなく、この試演に参加した若手歌舞伎(かぶき)俳優たちに大きな影響を残している。自由劇場の公演は、左団次一門の歌舞伎復帰や小山内の外遊などにより、1919年(大正8)の第9回公演をもって終わったが、その理念は新劇運動の原点として生き続け、今日にまで及んでいる。
[大島 勉]
『本庄桂輔著『フランス近代劇史』(1969・新潮社)』▽『斎藤一寛著『舞台の鬼アントワーヌ――フランス自由劇場の歩み』(1962・早稲田大学出版部)』▽『石沢秀二著『新劇の誕生』(紀伊國屋新書)』▽『越智治雄著『明治大正の劇文学――日本近代戯曲史への試み』(1971・塙書房)』