ストリンドベリ(読み)すとりんどべり(英語表記)Johan August Strindberg

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストリンドベリ」の意味・わかりやすい解説

ストリンドベリ
すとりんどべり
Johan August Strindberg
(1849―1912)

スウェーデン劇作家、小説家。1月22日生まれ。父はストックホルムで船会社を経営し、母は給仕女あがり。13歳で母を失い、家運は傾く。暗い家庭環境のなかで、彼の生涯を貫く反抗的姿勢が芽生える。ウプサラ大学に学んだが、作家を志し、『ローマにて』(1870)、『平和なき者』(1871)、『ウーロフ師』(1872)などの戯曲を書き、世に認められる。ジャーナリスト、王立図書館司書などの職につき、77年には軍人貴族の元妻シリ・フォンエッセンと結婚。ジャーナリスト時代の見聞を織り込んだ風刺小説『赤い部屋』(1879)で文壇の寵児(ちょうじ)となる。妻シリが女優となったことから劇作に打ち込む。短編集『新国家』(1882)、詩集『詩』(1883)などの辛辣(しんらつ)な風刺、毒舌が禍(わざわい)して、1883~89年にかけてスイス、フランスなどで逃避生活を送る。女性観を盛った『結婚物語』(1884、86)が裁判沙汰(ざた)となる。以後、自伝小説『女中の子』(1886、87、1909)、自然主義戯曲『父』(1887)、『令嬢ジュリー』(1888)、『債鬼』(1890)、小説『大海のほとり』(1890)などの傑作を書く。しかし91年に、かねてから調和を欠いていた妻との間がこじれて離婚。この間の事情は小説『痴人の告白』(1888)に詳しい。92~96年おもにパリ、ベルリンに滞在、93年オーストリアの女流ジャーナリスト、フリーダ・ウールと結婚するが、97年には離婚。この92~97年はいわゆる「地獄時代」で、彼はこの間、物心両面で困窮し、異常な精神状態のうちに、錬金術、神秘思想に凝った。『地獄』(1897)、『伝説』(1898)はその間の事情を物語る自伝小説である。

 その後『グースタブ・バーサ』(1898)、『カール12世』(1901)などの史劇を手がける。伝統的形式を脱した戯曲『ダマスクスへ』(1898、1904)、『死の舞踏』(1901)、『夢幻劇』(1902)などは、以降の作品の展開にとってより深い意味をもつ。1901年女優ハリエット・ボッセと結婚するが、04年に離婚。07年、161人収容の小規模な「親和劇場」を開き、上演時間1時間程度の室内劇『稲妻』『焼け跡』『幽霊ソナタ』『ペリカン』の四編を同年に書く。劇場は10年に閉鎖。当初スウェーデンでは不成功に終わったこれらの戯曲は、後年ラインハルトの演出、オニールの評価によって、本国でも改めて高く評価された。最晩年の作に韻文劇『大街道』(1909)がある。論争的な『黒旗(くろはた)』(1907)、それの「注釈」と彼自らが銘打つ、警句に満ちた『青書(せいしょ)』(1906~09)にもみられるように、抗争的姿勢は終生変わらなかった。女性に対し激しい愛と憎しみの間を動揺し続けた事実は、3回の離婚歴がよく物語っており、彼を女性憎悪者として世間に強く印象づけた。社会に対して抗争的な彼が強い階級意識を抱いていたのは当然だが、それは実践にはつながらず、むしろユートピア的であった。作家的関心の領域はきわめて広く、自然科学、錬金術にも及び、東洋、日本にも強い興味を示した。絵筆もとり、写真にも熱中したが、彼の特異な性格から、ゲーテのように円熟の境地には達しなかった。1912年5月14日の死に至るまでの4年間を、「青い塔」とよばれる建物の一郭で孤独のうちに過ごす。ここは現在ストリンドベリ記念館として保存されている。

 日本では森鴎外(おうがい)訳『債鬼』『稲妻』などを大正初期に上演、さらに昭和にかけて山本有三、小宮豊隆(とよたか)らによって他の戯曲も紹介された。小説の翻訳、選集の出版も行われた。『令嬢ジュリー』は日本でもっともなじみ深い戯曲で、『痴人の告白』は女性憎悪者の彼を強く印象づけたが、日本の読者層に定着した作家とはいいがたい。翻訳は独訳または英訳からの重訳が多かった。

[田中三千夫]

『毛利三弥他訳『ストリンドベリ名作集』(1975・白水社)』『山室静他訳『イプセン・ストリンドベリ集』(『決定版世界文学全集10』1954・河出書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ストリンドベリ」の意味・わかりやすい解説

ストリンドベリ
Strindberg, (Johan) August

[生]1849.1.22. ストックホルム
[没]1912.5.14. ストックホルム
スウェーデンの劇作家,小説家。ウプサラ大学に学んだが,学資難のためにしばしば休学,卒業はしなかった。 1874年に王立図書館司書となりやや落ち着いたが,翌年近衛士官の妻シリ・フォン・エッセンと恋に落ち,77年夫と別れた夫人と結婚した。 79年にスウェーデンで最初の自然主義小説『赤い部屋』 Röda Rummetを発表,一躍文壇の注目を浴び,次いで『』 Fadren (1887) ,『令嬢ジュリー』 Fröken Julie (88) などの自然主義劇で世界的に知られた。 91年に離婚,次いで第2の結婚も破綻し,いわゆる「地獄時代」の錯乱状態に陥った。やがてキリスト教的神秘主義に救いを見出し,象徴劇『ダマスカスへ』 Till Damaskus (1~2部 98,3部 1904) に回心の記録を示して後期の創作活動に入った。 1901年ノルウェーの若い女優と結婚,同年『死の舞踏』 Dödsdansenを発表。晩年には実験小劇場を開いて,『幽霊ソナタ』 Spöksonaten (07) など象徴性の強い劇を上演した。

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