兄エドモンEdmond Huot de Goncourt(1822―96)、弟ジュールJules Huot de Goncourt(1830―70) フランスの兄弟作家。エドモンはナンシー生まれだが、4歳で一家がパリに移り住んだので兄弟とも生粋(きっすい)のパリジャンといえる。弁護士の祖父がわずかな土地を購入してルイ16世によって貴族に列せられた家柄だが、兄弟とも強烈な貴族意識をもっていた。兄が内向的で、弟が外向的という対照的な性格だが仲がよく、2人とも初め画家を志すが、一転して文士志望に決める。主として兄エドモンの口述を弟ジュールが筆記し、2人で推敲(すいこう)する方法で、ジュールが梅毒で夭折(ようせつ)するまで多数の作品を合作。しかし、処女作『18××年』(1854)は不首尾に終わり、ジャーナリスト、劇作家としても成功しなかった。そこで、フランス18世紀に関する文献や史料を渉猟し、『大革命期のフランス社会史』(1854)、『18世紀の美術』(1859~75)、『18世紀の女性』(1862)などの歴史研究書を書き、とくに『マリ・アントアネット伝』(1858)で若干の成功を収めた。
兄弟は歴史研究の手法で小説を書き、『シャルル・ドゥマイイ』(1860)、『尼僧フィロメーヌ』(1861)、『ルネ・モープラン』(1864)ののち、1865年、自家の女中の二重生活を扱った『ジェルミニー・ラセルトゥー』で世間の注目をひく。さらに『マネット・サロモン』(1867)、『ジェルベゼ夫人』(1869)など、病理学の対象たりうる特異な人物、とくに女性を扱い、自然主義の先駆的手法ともいえる観察と調査を駆使し、2人が「芸術的文体」と自負する独特の文章で書いた。しかし、作品はいずれも本筋を離れたわき道の描写が多く、冗漫の感を免れない。弟の死後、エドモンは単独で『売笑婦エリザ』(1877)、『ザンガノ兄弟』(1879)、『シェリー』(1884)などを書くが不成功に終わった。
兄エドモンは19世紀後半のフランスを風靡(ふうび)したジャポニスム(日本趣味)の先駆者と自負し、日本人の画商林忠正(ただまさ)の協力で、浮世絵研究書『歌麿(うたまろ)』(1891)、『北斎(ほくさい)』(1896)を出版。また兄弟の『日記』(1850~96執筆)は、第二帝政期を含む19世紀後半のフランス社会、文壇の活写として貴重である。なお、エドモンの死後、遺言により、遺産を基金として、在野の「アカデミー・ゴンクール」が設立され、毎年もっとも優れた散文作品を選定して、ゴンクール賞を授与している。
[齋藤一郎]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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