日本歴史地名大系 「舞坂宿」の解説
舞坂宿
まいさかしゆく
〔中世〕
西対岸の新居宿と同様、中世以来交通・軍事の要衝で、マエサワ(マイサワ)と称された。承久の乱の敗北により、京都から護送された公卿の権大納言坊門忠信は、彼の妹西八条禅尼が源実朝の室であったため赦免された。この知らせを受けた坊門忠信は帰京したが、「吾妻鏡」承久三年(一二二一)八月一日条には遠江国「舞沢」から、「承久記」には「舞坂」からとある。「海道記」貞応二年(一二二三)四月一一日条によると、浜松を経て「林ノ風ニヲクラレテ廻沢ノ宿ヲ過、遥ニ見亘テ行バ、岳辺ニハ森アリ、野原ニハ津アリ」と記されている。「東関紀行」の作者某は仁治三年(一二四二)八月に当地を通り、「舞沢の原といふ所に来にけり。北南は眇々と遥かにして、西は海の渚近し。錦華繍草のたぐひはいとも見えず、白きいさごのみありて雪の積るに似たり」と記しており、この近辺の風景を彷彿とさせる。嘉禎四年(一二三八)二月七日、京都へ向かう途中の将軍藤原(九条)頼経が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報