舞坂宿(読み)まいさかしゆく

日本歴史地名大系 「舞坂宿」の解説

舞坂宿
まいさかしゆく

[現在地名]舞阪町舞阪まいさか浜田はまだ

浜名湖の東岸に位置し、北は浜名湖、東は馬郡まごおり(現浜松市)、西は今切いまぎれ渡を間にし新居あらい宿(現新居町)、南は遠州灘に面する。東海道五十三次の一で、江戸から三〇番目の宿。浜松宿に二里半一〇町、今切渡で結ばれた新居宿に一里半(宿村大概帳)。郷帳類には舞坂村・舞坂町あるいは舞坂宿などとして高付されている。東海道が東西に貫き、西から西にし町・なか町・しん町と町並が続き、西町の南側にすな町が位置した。

〔中世〕

西対岸の新居宿と同様、中世以来交通・軍事の要衝で、マエサワ(マイサワ)と称された。承久の乱の敗北により、京都から護送された公卿の権大納言坊門忠信は、彼の妹西八条禅尼が源実朝の室であったため赦免された。この知らせを受けた坊門忠信は帰京したが、「吾妻鏡」承久三年(一二二一)八月一日条には遠江国「舞沢」から、「承久記」には「舞坂」からとある。「海道記」貞応二年(一二二三)四月一一日条によると、浜松を経て「林ノ風ニヲクラレテ廻沢ノ宿ヲ過、遥ニ見亘テ行バ、岳辺ニハ森アリ、野原ニハ津アリ」と記されている。「東関紀行」の作者某は仁治三年(一二四二)八月に当地を通り、「舞沢の原といふ所に来にけり。北南は眇々と遥かにして、西は海の渚近し。錦華繍草のたぐひはいとも見えず、白きいさごのみありて雪の積るに似たり」と記しており、この近辺の風景を彷彿とさせる。嘉禎四年(一二三八)二月七日、京都へ向かう途中の将軍藤原(九条)頼経が橋本はしもと(現新居町)へ着いた際、北条実時は先行していた人々によって宿が占拠されていたため、舞沢松原に野宿し、これを知った足利泰氏らが自らの宿の提供を申出て、この松原に参じたという(吾妻鏡)。明応東海地震などの災害によって今切が出現した結果、西は新居、東は舞坂が渡海点および宿場として発展していく。弘治二年(一五五六)九月一一日、継母中御門氏を見舞うために京都を出発した山科言継が二〇日に三河の吉田よしだ(現愛知県豊橋市)を出て今切渡を経て「前坂」の源三郎家に一泊している(言継卿記)。永禄九年(一五六六)二月一〇日、江馬時成が松平家康(徳川家康)から「舞坂内まこおり」の二〇貫(舟共)の地などを安堵され(「松平家康判物写」紀伊国古文書所収藩中古文書)、同年四月二一日には今川氏真が「馬郡舞坂」の三一貫文(船五艘共)などを江馬時成・泰顕に与えている(「今川氏真判物写」同古文書)。同一二年には徳川家康が同地などを江馬一成に安堵した(同年二月二日「徳川家康判物写」同古文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の舞坂宿の言及

【舞阪[町]】より

…面積4.63km2で県下一小さく,人口密度は2522人/km2ときわめて高い。江戸時代には東海道の舞坂宿として栄え,湖口に今切渡(いまぎれのわたし)があった。明治時代から始まった養鰻業の中心地で,現在はスッポン,ノリ,カキなどの養殖も行われる。…

※「舞坂宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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