花木村(読み)はなのきむら

日本歴史地名大系 「花木村」の解説

花木村
はなのきむら

[現在地名]山之口町花木

山之口村の南に位置し、南西富吉とみよし村より延びる三股みまた往還で山之口村と結ばれる。花之木とも記される。江戸時代は鹿児島藩領で、山之口郷に所属(「三州御治世要覧」など)。享徳二年(一四五三)三月二二日の樺山氏宛の某坪付(樺山文書)に、花木の小字須田木すだきにつながるとみられる「(栖カ)木」などがみえ、当時の花木は樺山氏の知行下にあったとみられる。その前後の動向を「三俣院記」に載る棟札や伝承などによってみると、南北朝初期の肝付兼重与党に花木祖賢入道なる人物がいたと伝承され、花之木の勝軍地蔵の応永三四年(一四二七)四月一六日の像内造立銘には対馬介公頼なる人物による造立の記事がみえる。花木中村には諏訪上下大明神(現南方神社)が戦国期には勧請されていた。同社の棟札によれば、応仁元年(一四六七)一一月一六日に檀越橘氏、弘治三年(一五五七)一月には檀越直方加賀守が造営を行っており、前掲勝軍地蔵銘には永正一〇年(一五一三)二月一五日の再興者として伊東氏家臣の地頭落合刑部丞兼有の名がみえる。


花木村
はなのきむら

[現在地名]富山市花木

住吉すみよし村の南西に位置し、南東に呉羽山くれはやま丘陵の台地がせまる。西は射水郡花木新村。婦負郡に属し、元和八年(一六二二)婦負・射水両郡境に新村を開発することとなり、周辺の射水郡中老田なかおいだ村・二俣ふたまた村・布上村(野々上村)、婦負郡まき(のち住吉村)東高木ひがしたかぎ村・小竹おだけ村によって開発され、一村立てしたものとみられる(「花木新村一村建許可状」海内家文書)


花木村
はなぎむら

[現在地名]哲多町花木

則安のりやす村の東に位置し、集落は横氏よこうじ森広もりひろ中組なかぐみ山室やまむろ久保井野くぼいのに散在。寛永備中国絵図に村名がみえ、高三三石余、山崎家治先知とある。同絵図にみえる高井野たかいの(高八八石余、山崎家治先知)は当地高井野であろう。正保郷帳にも二村がみえ、高は同前。花木村には柴山少・芝草山大、高井野村には松林少・柴山小・芝草山大の注記がある。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)には花木村一村でみえ、古高四六七石余・新高六二三石余。正保(一六四四―四八)以降の領主の変遷は老栄おいざこ村に同じ。正徳元年(一七一一)以降幕府領として幕末に至った哲多郡一〇ヵ村の年貢米は、玉島たましま(現倉敷市)から大坂・江戸へ廻送されたが、本郷ほんごう川流域の村々では本郷川の高梁たかはし川流入点に位置する川之瀬かわのせ(現新見市)に津出し、そこから高瀬舟で玉島へ運んだ(沖田文書)


花木村
はなぎむら

[現在地名]宇目町塩見園しおみぞの 花木

塩見園村の北、塩見川中流域に位置。塩見園村から見明みあかり峠への道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高五七石余・畑高一五石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高七四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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