若山儀一(読み)わかやまのりかず

日本大百科全書(ニッポニカ) 「若山儀一」の意味・わかりやすい解説

若山儀一
わかやまのりかず
(1840―1891)

明治初期の経済学者、官僚江戸の医家西川宗庵(そうあん)の子として生まれ、のち若山家に入る。緒方洪庵(おがたこうあん)の門に入り、一時緒方の姓を許されたほどの英才である。幕末には幕吏として外国貿易関係事務に従事、維新後は開成所教授を経て、民部省、大蔵省出仕し、1871年(明治4)岩倉具視(ともみ)の欧米視察にあたって随員となり、アメリカに3年間滞留、税務財政を研究した。帰国後、一時期(1877~81)官を辞したが、ふたたび太政官(だじょうかん)、農商務省などに出仕、官僚としての生涯を送った。その間多数の訳書著書を出し、保護貿易の論陣を張った先覚的経済学者でもあり、税制改革、土地制度その他に関し、多くの有益な建議をなした。また、前述の野にあった時期に、本邦最初の生命保険会社(日東保生会社)を設立した(事業はわずか9か月で挫折(ざせつ))。代表的訳・著書に、ペリーのElements of Political Economyの部分訳『官版経済原論』(1869、箕作麟祥(みつくりりんしょう)との共訳)、バイルズのSophisms of Free-Trade and Popular Political Economy Examinedの訳『自由交易穴探(あなさがし)』(1877)、『保護税説』(1871)などがある。なお、『自由交易穴探』の「引言」には彼の経済思想がまとめて述べられている。

多田 顯]

『大山敷太郎編『若山儀一全集』全2巻(1940・東洋経済新報社)』『『本庄栄治郎著作集2 日本経済思想史』(1971・清文堂出版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「若山儀一」の意味・わかりやすい解説

若山儀一 (わかやまぎいち)
生没年:1840-91(天保11-明治24)

明治前期の官僚,経済学者。江戸の医者の家に生まれ,緒方洪庵の適塾に学ぶ。やがて英学の修得にすすみ,医学をすて,開成所の英語教師となり,明治初年には開成所・大学教授を務める。かたわらイギリス人について経済学を研究。1871年民部省に入り,大蔵省に転じ,岩倉欧米使節団に随行してアメリカに留学する。帰国後,新進官僚として税制改革にあたったが,77年民間に転じ,日本最初の近代的生命保険会社たる日東保生会社の設立に尽力。しかし同社は開業しなかった。解散後,ふたたび官界にもどり,とくに士族授産事業に力を注ぐとともに,自由民権運動に反対し天皇中心主義を唱えた。やがて宮内省編修委員となり財政史部門を担当した。明治前期の先覚的な経済学者として著名であり,とくに西洋経済学・農学の紹介者,体系的な保護貿易論の提唱者,総合的な税制改革意見の提唱者として大きな足跡を残した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「若山儀一」の解説

若山儀一 わかやま-のりかず

1840-1891 明治時代の経済学者,官僚。
天保(てんぽう)11年8月生まれ。江戸の医師西川宗庵の子。若山家の養子となり,緒方洪庵(こうあん)にまなぶ。開成所教授から民部省,大蔵省に勤務。明治4年岩倉使節団にくわわり,税務,財政を研究。帰国後太政官(だじょうかん),宮内省などにつとめ,保護貿易,税制改革を提唱した。明治24年9月3日死去。52歳。別名に緒方正。著作に「保護税説」「泰西農学」など。

若山儀一 わかやま-ぎいち

わかやま-のりかず

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android