箕作麟祥(読み)ミツクリリンショウ

デジタル大辞泉 「箕作麟祥」の意味・読み・例文・類語

みつくり‐りんしょう〔‐リンシヤウ〕【箕作麟祥】

[1846~1897]法学者。江戸の生まれ。阮甫げんぽの孫。フランス留学。帰国後、明治政府のもと法律起草制定に尽力し、司法次官・行政裁判所長官などを歴任

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精選版 日本国語大辞典 「箕作麟祥」の意味・読み・例文・類語

みつくり‐あきよし【箕作麟祥】

  1. 法学者。岡山県出身。阮甫の孫。幕府の外国奉行翻訳御用になり、徳川昭武に従い渡仏。フランス民法典などの翻訳や、法典編纂に従事。訳書「仏蘭西法律書」等。弘化三~明治三〇年(一八四六‐九七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「箕作麟祥」の意味・わかりやすい解説

箕作麟祥
みつくりりんしょう
(1846―1897)

幕末・明治初期の洋学者、法学者。弘化(こうか)3年7月29日江戸に生まれる。父省吾(1821―1846)は津山藩士、蘭医(らんい)箕作阮甫(げんぽ)の弟子で、その三女をめとって嗣子(しし)となった地理学者。麟祥は若くより漢学、蘭学、英学を学び、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕し、洋学教授手伝や通訳などを務めた。1867年(慶応3)フランスに留学、翌年帰国後は明治新政府に仕え、司法卿(しほうきょう)江藤新平(えとうしんぺい)のもとで、フランス諸法典の翻訳、紹介にあたった。1873年(明治6)ボアソナード来日後は、彼と協力して旧民法などの法典編纂(へんさん)に従事、「動産」「不動産」などの訳語も考案した。『明六雑誌(めいろくざっし)』に「リボルチーの説」などを寄稿して、啓蒙(けいもう)活動を行った。司法大丞(だいじょう)、太政官(だじょうかん)大書記官、元老院議官、司法次官、行政裁判所長官などを歴任、また1890年からは貴族院議員に勅選された。大井憲太郎、中江兆民などは彼にフランス語を学んだ。訳書に『佛蘭西法律書(フランスほうりつしょ)』(1870~1874)、『泰西勧善訓蒙』(1871)などがある。明治30年11月29日死去。

長尾龍一

『大槻文彦著『箕作麟祥君伝』(1907・丸善)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「箕作麟祥」の解説

箕作 麟祥
ミツクリ リンショウ


肩書
元老院議官,貴院議員

旧名・旧姓
初名=貞一郎

生年月日
弘化3年7月29日(1846年)

出生地
江戸・津山藩邸

学位
法学博士〔明治21年〕

経歴
生後すぐに父を失い、祖父箕作阮甫について洋学を学ぶ。文久元年15歳で蕃書調所に出仕、3年祖父を継いで幕臣に列せられ外国奉行翻訳方につとめ、慶応3年パリ万国博覧会派遣使節徳川昭武一行に従ってフランスに留学。明治元年帰国、新政府に出仕して開成所御用掛を命ぜられ一等訳官、2年大学中博士、4年同大博士、6年翻訳局長、10年司法大書記、13年太政官大書記官に累進し、フランス民法典など西洋法律の翻訳に従事し、ボアソナードらとともに民法はじめわが国成文法の起草に尽力。この間明六社員として啓蒙活動にも力を注いだ。さらに東京学士院会員、元老院議官、司法次官、貴族院議員、行政裁判所長官、和仏法律学校(現・法政大学)校長を歴任。また民法・破産法・商法編纂委員となり、明治民法・商法編纂に貢献した。30年死に際して男爵を与えられた。訳書に「万国政体論」「デルソル氏仏国民法解釈」「仏蘭西法律書」など。

没年月日
明治30年11月29日

家族
父=箕作 省吾(地理学者) 祖父=箕作 阮甫(蘭学者)

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改訂新版 世界大百科事典 「箕作麟祥」の意味・わかりやすい解説

箕作麟祥 (みつくりりんしょう)
生没年:1846-97(弘化3-明治30)

明治期の法律学者,法学博士。江戸の津山藩邸に生まれる。蘭学の大家箕作阮甫の孫で,父は省吾。蕃書調所英学教授手伝並出役,外国奉行支配翻訳御用頭取を経て,1867年(慶応3)パリ万国博覧会に際し徳川昭武に随行して,フランスに留学する。明治維新後69年(明治2)家塾を開く。門下生に呉文聡,大井憲太郎,中江兆民らがいる。70年翻訳御用掛に制度取調兼勤となり,以後その後半生をフランス民法典をはじめ西洋法律書の翻訳に従い,ボアソナードらとともに旧民法その他の起草に参画するなど,明治政府の法典編纂事業を根底から支えつづけた。民権・動産・不動産・未必条件・治罪法・憲法などの訳語を考案し,フランス法理論の基礎をなす自由・人権思想を理解し,〈国政転変ノ論〉の訳稿で人民の抵抗権・革命権を認めるなど,法学官僚としても異色の存在であった。この間,明六社に参加して啓蒙活動を行い,東京学士会院会員,元老院議官,司法次官,貴族院議員などを歴任した。著書は翻訳書がほとんどであるが,近代日本法学史上の先駆者としての地位は高い。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「箕作麟祥」の意味・わかりやすい解説

箕作麟祥【みつくりりんしょう】

明治の法学者。蘭学者箕作阮甫の孫,地理学者省吾の子。蕃書調所英学教授手伝並出役などを経てフランスに留学。帰国後家塾を開き,中江兆民大井憲太郎らはその門下。のち新政府の法典編纂事業を推進,ボアソナードらとともにフランス諸法典を翻訳・紹介し,旧民法,旧商法の起草に参加した。貴族院議員,行政裁判所長官などを歴任。動産,不動産,憲法などは彼の訳語。明六社に加わり,啓蒙活動も行った。訳著《仏蘭西法律書》。
→関連項目法政大学

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朝日日本歴史人物事典 「箕作麟祥」の解説

箕作麟祥

没年:明治30.11.29(1897)
生年:弘化3.7.29(1846.9.19)
幕末明治期の洋学者,啓蒙的官僚。祖父に幕末蘭学者の箕作阮甫を持ち,父は省吾,母はしん。江戸の津山藩邸に生まれる。漢学,蘭学,英学を修学し,のち蕃書調所教授手伝並出役,開成所教授見習,外国奉行支配翻訳御用頭取を歴任。慶応2(1866)年渡仏の機会を得てこの前後からフランス学を学ぶ。維新後,明治政府に出仕し翻訳,調査業務を中心に官歴を歩む。また家塾も開く。民法,商法編纂に尽力する。司法次官,行政裁判所長官などを歴任するほか,和仏法律学校(法政大学)校長,元老院議官,貴族院議員となる。男爵。フランス系法学の開祖と呼ばれたが著書論文はなく,麟祥に西洋文化移植期の洋学者のひとつの型を見いだすことができる。<参考文献>大槻文彦『箕作麟祥君伝』,大久保利謙編『明治啓蒙思想集』(『明治文学全集』3巻)

(中野実)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「箕作麟祥」の意味・わかりやすい解説

箕作麟祥
みつくりりんしょう

[生]弘化3(1846).7.29. 江戸
[没]1897.11.29. 東京
洋学者,法学者。幼名は貞太郎,のち貞一郎。生れた年に父省吾は他界,祖父箕作阮甫に養育され,洋学を祖父について習得。文久3 (1863) 年祖父の死にあい嫡孫として跡を継ぎ,幕臣に列せられた。慶応3 (67) 年徳川民部大輔に随行してフランスに渡り,フランス語を修得,翌年帰朝後,明治政府の一等訳官に任じられた。以後,元老院議官,司法次官,1889年には貴族院議員,法典調査会主査などを経,91年に行政裁判所長官。その業績としては,フランス諸法典の翻訳,旧民法,商法の編纂事業などがあげられる。主著『仏蘭西法律書』 (70) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「箕作麟祥」の解説

箕作麟祥
みつくりりんしょう

1846.7.29~97.11.29

明治期の洋学者・法学者。法学博士。地理学者箕作省吾の子。江戸生れ。家で蘭学・英学を学び,開成所などに出仕。のちフランス学も修める。明治維新後新政府に出仕し,1869年(明治2)翻訳御用掛,大学中博士。77年司法大書記官,翻訳課・民法編纂課課長,民法編纂委員,84年から商法などの編纂委員を務め,法典整備に貢献。明六社で啓蒙活動にも尽力。88年司法次官。90年和仏法律学校校長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「箕作麟祥」の解説

箕作麟祥 みつくり-りんしょう

1846-1897 明治時代の法学者。
弘化(こうか)3年7月29日生まれ。箕作省吾の子。幕臣となり,慶応3年パリ万国博に派遣された徳川昭武に随行。帰国後新政府に出仕し,ナポレオン法典の翻訳,民法・商法の編成にあたる。司法次官,行政裁判所長官などを歴任。貴族院議員。明治30年11月29日死去。52歳。江戸出身。名は「あきよし」ともよむ。

箕作麟祥 みつくり-あきよし

みつくり-りんしょう

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旺文社日本史事典 三訂版 「箕作麟祥」の解説

箕作麟祥
みつくりりんしょう

1846〜97
明治時代の法学者
美作 (みまさか) (岡山県)津山藩出身。江戸の藩邸に生まれる。祖父阮甫 (げんぽ) に蘭学を学び蕃書調所・開成所に勤務。フランス留学を経て明治政府に出仕し,司法制度の確立・法典編纂に尽力した。また明六社の有力メンバーで,和仏法律学校(現法政大学)長もつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の箕作麟祥の言及

【学制】より

…〈学校制度〉の略称として用いられる場合もあるが(学制改革論など),歴史的には,1872年(明治5)から翌73年にかけて数次にわたり文部省布達をもって公布された,日本最初の全国規模での施行をめざした教育制度法令の名称。1871年廃藩置県直後に創設された文部省は,日本の近代化の早急な実現をめざす基本的手段の一つとして,まず全国規模での学校制度の立案を計画し,71年12月箕作麟祥ら洋学者を中心とする12人の〈学制取調掛〉を任命し,翌72年1月には大綱を決め3月下旬案文をととのえて太政官に上申し,6月下旬にその決裁を得て,8月3日文部省布達をもって最初の109章(条)を公布し,以後73年7月までに全213章を公布した。太政官での文部省上申案の審議をめぐり,岩倉使節団の訪欧米中に重大な国内改革をすべきでないとする井上馨,板垣退助らと,一挙に〈学制〉の公布をめざす大隈重信,大木喬任らとの対立があり,また太政官の裁可後も教育への国庫補助金額をめぐって大蔵・文部両者の折合いがつかず,2ヵ月延長したうえ,該当条文字句を欠字のまま公布をみた。…

【百科事典】より


[近代]
 短期間に西欧の文化を受容しようとした明治政府は,さまざまな試行を続けたが,その一つに,イギリスの小百科事典《Chambers’s Information for the People》の翻訳があった。1873年に計画されたこの国家事業は,箕作麟祥(みつくりりんしよう)らを中心とし,多額の費用を投入して進められた。訳稿は《厚生新編》と同様に,部門別にまとめ,電気編,交際編,経済編というような形で順次木版本で刊行され,全体を《百科全書》と名付けた。…

※「箕作麟祥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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