荒木田麗女(読み)アラキダレイジョ

デジタル大辞泉 「荒木田麗女」の意味・読み・例文・類語

あらきだ‐れいじょ〔‐レイヂヨ〕【荒木田麗女】

[1732~1806]江戸後期の女流文学者。伊勢の人。本名、隆。号は紫山。著に歴史物語池の藻屑もくず」「月の行方ゆくえ」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荒木田麗女」の意味・わかりやすい解説

荒木田麗女
あらきだれいじょ
(1732―1806)

江戸後期の女流文学者。初名隆(りう)、のち麗女と改める。伊勢内宮(いせないくう)の神主荒木田武遠(たけとお)の女(むすめ)。13歳で叔父外宮(げくう)の御師(おし)荒木田武遇(たけとも)の養女となる。17歳で連歌師西山昌林(しょうりん)に入門、のち花の下昌廸(はなのもとしょうてき)の弟子となった。22歳(23歳ともいわれる)で慶滋家雅(けいじいえただ)と結婚。麗女の文筆活動の大成は、好学の夫の理解と援助による。『うつほ物語』の研究に端を発して、著作生活に入った年代は40歳から50歳ごろまでで、『月の行衛(ゆくえ)』以下の歴史物語、『桐葉(きりは)』以下の物語をはじめ、紀行文、随筆句集など著作総数は約400巻に上る。物語作品のほとんどは平安貴族に取材したもので、平安文学の亜流を出ないが、多くの古典を読破鑑賞した学者的態度と、その造詣(ぞうけい)を自由自在に駆使した流麗な文章とは、多作ぶりとともに驚嘆に値する。また、連歌の第一人者として、夫の死後は、豊宮崎(とよみやざき)文庫の連歌会と、自家の月次(つきなみ)会を指導した。文化3年1月12日、山田八日市場の自邸に没す。75歳。墓所は伊勢市浦口町旦過(たんが)の山上(一名天神(でんじ)山)にある。

[伊豆野タツ]

『日本文学資料研究会編『国学者伝記集成 荒木田慶徳麗子』復刻版(1973・名著刊行会)』『新谷知新編『江戸時代女流文学全集1~3』復刻版(1979・日本図書センター)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒木田麗女」の意味・わかりやすい解説

荒木田麗女
あらきだれいじょ

[生]享保17(1732).3.10. 伊勢,山田
[没]文化3(1806).1.12. 伊勢,山田
江戸時代中期~後期の女流歴史物語作者。初名,隆子,のち麗と改名。別号,紫山,清渚。字,子奇。伊勢内宮の祠官榎倉 (または釜谷) 権之進の娘。 13歳で伯父慶徳藤右衛門の養女となる。両家とも荒木田氏。 24歳のとき慶滋 (よししげ) 家雅を養子に迎えて結婚。幼時から学問を好み,連歌,俳諧漢詩和歌書画をよくし,歴史,物語,紀行,雑録など 400巻に達する大部の著書を残した。主著,歴史物語『月のゆくへ』 (1771) ,『池の藻屑』 (71) ,物語『山の井』 (75) ,中国の『遊仙窟』を模した『藤の岩屋』や,短編集『ひおり』『怪世談 (あやしのよがたり) 』など。

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