荻島村(読み)おぎしまむら

日本歴史地名大系 「荻島村」の解説

荻島村
おぎしまむら

[現在地名]大川市荻島

下木佐木しもきさき村の西、花宗はなむね川左岸に位置する。南は鬼古賀おにこが村・北古賀きたこが村、西は郷原ごうばる村。中世木室きむろ村のうち。南北朝期の年月日未詳の某院宣断簡(歴世古文書/南北朝遺文(九州編)六)において三潴みづま酒見さけみ村にあった宝琳尼ほうりんに寺領として「(室脱カ)村内(荻)嶋」などが安堵されている。年未詳二月二二日の足利義詮安堵状(同上)では、摂取せつしゆ院坊主智淳に「摂取院三潴郡木室内荻嶋」が先例に任せ安堵されている。「寛文朱印留」に村名がみえる。本高四〇八石余(元禄国絵図)


荻島村
おぎのしまむら

[現在地名]瑞浪市釜戸町かまどちよう 荻島

大島おおしま村の東、土岐川北岸にあり、した街道が川沿いに、北部山腹を中山道が通る。北に枝郷の大久後おおくご細山ほそやまがある。荻之島とも記される。文明五年(一四七三)一一月二一日付の細川政国副状および翌二二日付の足利義政感状写(小笠原文書)に「大井・荻嶋両城」とあり、土岐氏の拠る荻島城は東軍に属する信濃小笠原氏らによって攻略された。近世には釜戸一一ヵ村の一。正保二年(一六四五)の国絵図作成時の高一五九石余(「安藤氏覚書」安藤文書)元禄郷帳では旗本馬場領。正保二年、竹折たけおり(現恵那市)とつきさわ井堰の引水をめぐる大羽根おおはね井水論があった(安藤氏覚書)


荻島村
おぎのしまむら

[現在地名]志雄町荻島

荻市おぎち村の南にあり、村内を内浦街道が通る。式内社の志乎しお神社が鎮座。明徳二年(一三九一)一一月一〇日の僧禅署寄進状(永光寺文書)に、禅署が知行地二段のうち「荻島松屋方寺前」の一段を、永光ようこう(現羽咋市)一五世無等の忌斎料として同寺祖師堂に寄進したとある。禅署の知行地のうち残る一段は光穏寺地となっていたらしいが、永光寺祖師年譜(同文書)では無等は荻島光穏寺の開基とされている。光穏寺の寺跡は不明であるが、志乎神社前に堂の前どうのまえ堂の坪どうのつぼの小字名がある。天正一四年(一五八六)三月一四日の荻島村検地打渡状(岡部文書)によると高一九町余、同一七年九月二三日の荻島村縄打渡状写(同文書)では二三町六反余。


荻島村
おぎしまむら

[現在地名]羽生市北荻島きたおぎしま

中手子林なかてこばやし村の北にあり、西より北方喜右衛門きうえもん新田村。北側を安藤あんどう堀が流れ、西から南に天神てんじん堀がめぐっており、一体が島のようで荻などが茂る地であったため村名が生じたという。承応三年(一六五四)幕府領代官の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高二八四石余、甲斐甲府藩領(国立史料館本元禄郷帳)。一部と考えられるが延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。同じく明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)


荻島村
おぎじまむら

[現在地名]酒田市荻島

大多新田おおたしんでん村の東方、新井田にいだ川中流左岸に位置する。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では東西に分けて記され、西荻島村高六斗余と一五八石余、東荻島村二石余と一八六石余。寛永元年庄内高辻帳には西荻島村のみがみえ高二一八石余。享和三年(一八〇三)の家数二六・人数一四三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧では免四ツ五分、家数二五。貞享四年(一六八七)草刈地の鷹尾たかお山萱山札一七枚を所有し、米三斗四升を納入(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)


荻島村
おぎしまむら

[現在地名]越谷市南荻島みなみおぎしま

後谷うしろや村・神明下しんめいした村の北に位置し、東は元荒川で限られる。集落は同川の堤防沿いと荒川旧流路の自然堤防沿いに連なる。なお宝永三年(一七〇六)天狗の鼻状に曲流していた元荒川が大竹おおたけ村から大林おおばやし村にかけ直流に改修されたが、これにより当村の一部が新川によって分断された。田園簿に村名がみえ、高は田方八八三石余・畑方四五九石余、幕府領。寛文四年―天和二年(一六六四―八二)の領主は越巻こしまき村に同じ。


荻島村
おぎしまむら

[現在地名]栄町荻島

曾根そね村の北、嵐南平野部にあり、近世を通じて新発田藩領で、慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)では一八七石二斗余。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)では毛付一三一石八斗余・荒九六石六斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば七軒が炉役計一石三斗五升を、善右衛門が紺屋役二斗五升を負担。安永六年(一七七七)の大面組郷帳(榎本善一郎氏文書)によれば、田二〇町四反余・畑一四町一反余、定納石一三六石八斗余、山直銀二九匁八分余、野直銭八六六文(野方七反二〇歩)、家数二九(本家一三・名子家二・間脇家一四)・人数二一〇、御漆木七二、御蝋実一一貫一九〇匁、桐二、槻一、橋六、社三。


荻島村
おぎしまむら

[現在地名]協和町三郷さんごう

観音かんのん川左岸にあり、南と西は古郷こごう村、北は徳永とくなが村。応永三一年(一四二四)一二月二三日の上杉定頼寄進状(鶴岡八幡宮文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、定頼が鎌倉の鶴岡八幡宮に当郷を寄進している。


荻島村
おぎしまむら

[現在地名]下山村荻島

ともえ川の支流大桑おおくわ川に沿い、北から東は神殿かんどの村、南から西にかけて和合わごう村に接する。集落は小起伏面上の山麓点在。現主要地方道阿蔵―本宿線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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