菊屋町
きくやちよう
南北に通る若宮通を挟む両側町。
平安京の条坊では左京五条三坊二保四町にあたり、前斎院の敷地に含まれていた。次の応徳元年(一〇八四)四月の家地売買券(朝野群載)は当町付近のもので、条坊制の表示法によっている。
<資料は省略されています>
町名は寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図をはじめ木版絵図には「だいうす丁」とあり、寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「往当此町に伴天連が住て、提宇子の法を勧しを、太閤秀吉公禁制せられ寺を壊れたり」と町名の由来を説く。
菊屋町
きくやまち
[現在地名]南区心斎橋筋二丁目
木挽町南之丁の南にあり、心斎橋筋の両側町。南は三津寺筋を越えて東側は道頓堀宗右衛門町までの半町ほど、西側は道頓堀久左衛門町との境の新屋敷筋まで。町名は明暦元年(一六五五)から確認される(南区志)。初発言上候帳面写には「一南傾城町・同東之筋・同中之町 但、菊屋町ト成」とあって、古町名を伝える。難波村の旧記古来より新建家目論見一件(成舞家文書)および「色道大鏡」によると、傾城町である瓢箪町は、北船場の又一町(現東区)から元和五年(一六一九)難波村の農地に移転させられ、さらに寛永七年(一六三〇)から八年にのちの新町(現西区)の地に移転した。
菊屋町
きくやちよう
中京区姉小路通富小路西入
東西に通る姉小路通(旧姉小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では、町の北半分が左京三条四坊三保一一町南、南半分が同保一二町北にあたる。平安中期以降は富小路姉小路と万里小路姉小路との間にあたる。
「山槐記」永暦元年(一一六〇)一二月四日条に「向右大臣亭公能、姉小路北、万里小路東」とあり、当東北半には、藤原公能の邸があった。
町の北側は室町時代、足利直義(「太平記」巻二七)、義詮(師守記)、義持(薩戒記)の館の地にあたる。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「菊屋丁」とあり、筆描図系では以降変化はない。
菊屋町
きくやちよう
町の中央を南北に西洞院通(旧西洞院大路)が通り、南は上長者町通(旧土御門大路)。
平安京の条坊では左京北辺二坊南東と同三坊南西の地。「拾芥抄」に「北辺亭 土御門北、西洞院西、左大臣源信公家」とあり、この辺りに嵯峨天皇の皇子源信の北辺亭があった。「今昔物語集」巻二四にも「今昔、北辺ノ左大臣ト申ス人御座ケリ、名ヲ信トゾ云ケル。嵯峨天皇ノ御子也、一条ノ北辺ニ住給ケルニ依テ、北辺ノ大臣トハ申ス也」と記される。
菊屋町
きくやちよう
中京区堺町通蛸薬師下ル
南北に通る堺町通を挟む両側町。南側は錦小路通に接する。
平安京の条坊では、左京四条四坊二保六町の中央。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「四条菊屋町」とあり、中井家系絵図は、すべて「四条菊屋町」「菊屋町」とある。一方、寛文・延宝期の町鑑類及び元禄九年(一六九六)京大絵図には「さるや町」とみえる。
菊屋町
きくやちよう
下京区加茂川端上ノ口上ル二筋共
町の東は鴨川、西は高宮町で町域内を南北に二筋の辻子が通る。
平安京の条坊では西側一部は左京七条四坊四保一五町東北部、平安中期以降は左女牛東京極大路の地。町域は平安時代の左大臣源融の別荘河原院の一部にあたる(拾芥抄)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「キクヤ丁」とみえる。町名は、開町以前は雑色支配の耕地で字を「菊屋」と称していたが、宝永三年(一七〇六)開墾して町地とした際、それを町名としたという(坊目誌)。
菊屋町
きくやちよう
東西に通る竹屋町通の両側町。
平安京の条坊では、町の北側は左京二条四坊四保一〇町の南、中央は大炊御門大路上、南側は同三保一一町の北にあたる。平安時代後期には、町の南は源能俊の邸(後に白河法皇の院御所大炊御門万里小路殿)の地にあたる(殿暦)。また、同所には住吉神社の跡があり、「坊目誌」には、「住吉神社ノ址、(中略)廃亡の日詳ならず、諸社根元記云、大炊御門万里小路住吉ノ別当但馬前司高房鎮守、云云」とある。
菊屋町
きくやちよう
上京区葭屋町通上長者町下ル
南北に通る葭屋町通の両側町。
平安京の条坊では左京一条二坊一保八町にあたり、官衙町の「大舎人町」「内豎町」の地(拾芥抄)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「川きくや丁」、寛永一八年以前平安城町並図には「よしや丁」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「菊屋町」と出る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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