デジタル大辞泉 「竹屋町」の意味・読み・例文・類語 たけや‐まち【竹屋町】 《京都の竹屋町で作ったという》金紗きんしゃの織物の一つ。茶・萌黄もえぎ・紺などの色の紗の地に平金糸で文様を織り出したもの。元和年間(1615~1624)に堺に来た中国人から技術を得たという。竹屋町裂れ。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「竹屋町」の意味・読み・例文・類語 たけや‐まち【竹屋町】 〘 名詞 〙 粗い縫取(ぬいと)り紋を表わした生織の紗。もと中国から伝わった紗金の技術にならって京都竹屋町でつくり始めたところからの名称。[初出の実例]「二枚目の若女形島田髢(かづら)に金烏帽子水干(幕内にて竹屋町(タケヤマチ)といふ)といふ扮装(こしらへ)にて」(出典:風俗画報‐一五二号(1897)人事門) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「竹屋町」の解説 竹屋町たけやちよう 京都市:下京区豊園学区竹屋町下京区高倉通綾小路下ル南北に通る高倉(たかくら)通(旧高倉小路)両側町。平安京の条坊では町の西側が左京五条四坊一保二町東、東側は同七町西の地にあたる。「朝野群載」所収の永保三年(一〇八三)一二月の売券によれば、<資料は省略されています>とあり、ほぼ当町に該当する土地の一部を、文章生藤原某が所持し、何らかの理由で丹波守某に米一千七〇余石とおおよそ絹二千二〇〇疋で売却している。ちなみに、この丹波守は「後二条師通記」などから藤原師信かと思われ、師信とすれば、後に播磨守に昇進した典型的な受領で、富裕者だったとみられる。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「竹や丁」とみえ、以後変更はない。 竹屋町たけやちよう 兵庫県:伊丹市伊丹郷町竹屋町[現在地名]伊丹市伊丹三丁目・中央(ちゆうおう)六丁目伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。材木(ざいもく)町の南に位置し、本(ほん)町筋を挟んだ両側町。文禄伊丹之図に町名がみえる。会所入用割の間数は三二六間半(「正心調法記」武田家文書)。天明六年(一七八六)には泉屋利兵衛ら江戸積み酒造家三人が居住(「酒造家名前覚」小西家文書)。しかし弘化年間(一八四四―四八)までに泉屋と木綿屋栄蔵が没落した(「天保度以来永代記」木村家文書)。元治元年(一八六四)には酒蔵が三棟あった(有岡古続語)。 竹屋町たけやまち 京都府:舞鶴市田辺城下竹屋町[現在地名]舞鶴市字竹屋平野屋町(ひらのやまち)の西に位置する南北に長い町で、高野(たかの)川下流の自然堤防の微高地に立地する。田辺城が築かれるとともに、湊町として城下町の交易・商業の中心となって栄えた。高野川の水運で各地から運ばれて来た産物を保管する納屋が軒を連ね、所々に船荷の積卸場が点在する港町特有の景観を呈していた。享保(一七一六―三六)頃写された丹後国田辺之図(杉本隆司家蔵)によれば南北一六〇間、幅三間(ただし、上ノ町二間)。 竹屋町たけやちよう 広島県:広島市中区竹屋町[現在地名]中区富士見(ふじみ)町・三川(みかわ)町・流川(ながれかわ)町平田屋(ひらたや)川東側の町で、対岸は東寺(ひがしてら)町、東南に竹屋村が続く。城下中通組に属した。寛永一六年(一六三九)竹屋村より分離して一町となり、もとの村名を付して町名とした。北西に架かる平田屋中橋付近は元文初年に家を建てることが許され、その南側は文化九年(一八一二)に許可され、同所では陶器を調製した。「知新集」に石橋五、町間数六丁一九間七分二厘、竈数二四二(本竈五二・借竈一九〇)、人数一千一五二(男五八九・女五六三)、うち焼物師五人、桶屋・畳刺・指物師各四人、大工三人、鉄砲鍛冶・塗師・傘張各二人、台師・矢師・木挽・仕立物師・紺屋各一人をあげる。 竹屋町たけやまち 兵庫県:豊岡市豊岡町竹屋町[現在地名]豊岡市元町(もとまち)滋茂(しも)町北部の西に位置し、西は新屋敷(あらやしき)村。天正一〇年(一五八二)発足の豊岡町(城下)五町外の端町の一として新屋敷村に食込んで成立。元禄一五年(一七〇二)の豊岡城下図(京極家蔵)ではすでに町屋が形成されている。寛永一二年(一六三五)城崎(きのさき)郡下陰(しもかげ)村から浄土真宗徳証(とくしよう)寺が転入、のちに光妙(こうみよう)寺(のち光行寺と改称)寺中に入ったが、このときは一面の竹原であったと伝える(徳証寺記)。 竹屋町たけやちよう 京都市:中京区初音学区竹屋町中京区押小路通高倉東入東西に通る押小路(おしこうじ)通(旧押小路)を挟む両側町。西側を高倉(たかくら)通(旧高倉小路)、中央を堺町(さかいまち)通が南北に通る。平安京の条坊では、町の北側が左京三条四坊一保八町南、南側が同七町北にあたる。平安中期以降は押小路高倉小路の東。当町南半は、平安時代の初期には、藤原定方の邸大西殿、北半は官衙町の一つ雅楽町の敷地(拾芥抄)。また室町時代初期には足利尊氏の館、後の等持寺の地にあたる(師守記・康富記)。 竹屋町たけやちよう 京都市:下京区植柳学区竹屋町下京区若宮通七条上ル南北に通る若宮(わかみや)通を挟む両側町。平安京の条坊では、左京七条三坊二保四町の地。近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち若宮組に所属。地子屋敷町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「若宮図子四丁目」、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には「若宮通四丁目」と記されるが、寛永一八年以前平安城町並図には「たいうすつきぬけ尻」ともみえる。 竹屋町たけやちよう 京都市:上京区西陣学区竹屋町上京区堀川通上立売上ル南北に通る堀川(ほりかわ)通東側の町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「北竹屋丁 南竹屋丁」とみえ、以後この呼称が多いが、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図などに「たけやのづし」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by