葉徳輝 (しょうとくき)
Yè Dé huī
生没年:1864-1927
中国,清末から民国にかけての学者。字は煥(奐)彬,園(けいえん)と号した。光緒18年(1892)の進士で,吏部文選司主事として退官。小学,目録学にくわしく,蔵書家としても著名であった。《孟子章句》など古書の佚文を集成したもの,また《園蔵書志》など,蔵書家,目録学者としての業績が多い。《書林清話》10巻も通論としてよく利用される。なお日本では〈せっとっき〉とも読まれることがあるが,中国の現代音yèは日本音〈よう〉に当たる。〈しょう〉,〈せつ〉は河南の葉県の古い読み方shèに相当する。すでに南宋の鄭樵が《通志》氏族略,葉氏の条に〈旧音は摂,後世は木の葉と同音〉というのに従って〈ようとっき〉〈えっとっき〉と読むべきだろう。いましばらく慣用に従う。
執筆者:尾崎 雄二郎
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葉徳輝(せっとくき)
せっとくき
(1864―1927)
中国、清(しん)末から中華民国初期にかけての学者、文人。「しょうとくき」「ようとくき」とも読む。1892年(光緒18)に進士に及第、いったんは官途についたがまもなく引退し、郷里の長沙(ちょうさ)(湖南省省都)で読書と著作に従事した。家は蔵書に富み、書斎を観古堂(かんこどう)と称する。博学多識の人で、とくに目録学者、書誌学者として知られるが、論説するところは広く地理、医学、戯曲、道教、占星術、本草学などの書に及んでおり、また康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)らの清末公羊(くよう)学を批判する論もある。著書に『書林清話』『観古堂所著書』など。民国初期の動乱に巻き込まれ、長沙で捕らえられて刑死した。
[楠山春樹 2016年3月18日]
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葉徳輝
しょうとくき
She De-hui
[生]同治3(1864).2.11.
[没]1927.4.11. 湖南,長沙
中国,清末から民国にかけての学者。字はけい園。光緒 18 (1892) 年の進士。吏部主事となったが,早く官を退いて郷里で著述に専念。彼の学は経学,文学から星命学,書誌学などに及んだが,当時の革新思想に反対して共産党軍に殺された。著書に『六書古微』『書林清話』など多数。
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世界大百科事典(旧版)内の葉徳輝の言及
【葉徳輝】より
…中国,清末から民国にかけての学者。字は煥(奐)彬,園(けいえん)と号した。光緒18年(1892)の進士で,吏部文選司主事として退官。小学,目録学にくわしく,蔵書家としても著名であった。《孟子章句》など古書の佚文を集成したもの,また《園蔵書志》など,蔵書家,目録学者としての業績が多い。《書林清話》10巻も通論としてよく利用される。なお日本では〈せっとっき〉とも読まれることがあるが,中国の現代音yèは日本音〈よう〉に当たる。…
【葉徳輝】より
…中国,清末から民国にかけての学者。字は煥(奐)彬,園(けいえん)と号した。光緒18年(1892)の進士で,吏部文選司主事として退官。小学,目録学にくわしく,蔵書家としても著名であった。《孟子章句》など古書の佚文を集成したもの,また《園蔵書志》など,蔵書家,目録学者としての業績が多い。《書林清話》10巻も通論としてよく利用される。なお日本では〈せっとっき〉とも読まれることがあるが,中国の現代音yèは日本音〈よう〉に当たる。…
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