中国古典学。中国における経書(けいしょ)すなわち儒家古典の解釈学。経書には古代の聖人・賢人の心が込められていると信じ、それをとらえることを終局の目標とするのが経学であって、中国哲学・中国文学の根底をなす。小学とよばれる古代言語研究、広くいえば中国語学が、経学研究に必須(ひっす)の学としてある。古聖賢の心に迫るにしても、その方法ないし態度には歴代変遷の跡がみられ、普通に(1)漢唐訓詁(かんとうくんこ)の学(漢学)、(2)宋明(そうみん)性理の学(宋学)、(3)清朝(しんちょう)考証の学(考証学)などとよばれる。思弁的・演繹(えんえき)的である宋明の学は、経(けい)を読み経のなかに古聖賢の心を探ろうとするよりも、己が心に古聖賢の心をみいだそうとさえする傾向があるところから、経学といえば、とかく(1)の漢学と(3)の考証学とが想起されがちである。なお「経学」の語は、『漢書(かんじょ)』儒林(じゅりん)伝に、漢の世になって「諸儒始めて其(そ)の経学を修むることを得、云云」というなど、すでに前漢にみえる。
[近藤光男]
秦(しん)の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)のあと漢の天下が安定すると、伏生(ふくせい)が壁に塗り込めて隠した『尚書(しょうしょ)』の竹簡(ちくかん)が取り出され、今文(きんぶん)すなわち当時通用の文字であった隷書(れいしょ)で書き写されたというように、経書がしだいに今文に写定され、武帝は儒学を国学と定め、五経(ごきょう)博士をたてた。一経を専門として訓詁(くんこ)が口授(くじゅ)され、師法・家法といって師説の改易は許されず、学問の師承(だれから学を受けたか)が重んぜられた。かくて前漢の学は今文学で官学であり、天人相関や陰陽災異の思想を含み、政治性が強かった。武帝の召しに赴く公孫弘(こうそんこう)は、「学を曲げて以(もっ)て世に阿(おもね)ることなかれ」と『詩』の老学者轅固(えんこ)に戒められている。前漢末、紀元元年に近いころ、中国最初の書目解題「叙録」や図書分類「七略」をつくった劉向(りゅうきょう)・劉歆(りゅうきん)父子の、劉歆は古文学を提唱した。古文(こぶん)とは、先に武帝のとき魯(ろ)の恭(きょう)王が孔子(孔丘(こうきゅう))の旧宅を壊すと、壁中から『尚書』や『論語』などが出て、みな古文であったというように、漢以前の文字である籀文(ちゅうぶん)や大篆(だいてん)などのことで、古文とよばれる文字で書かれた経書が、民間に伝承されていた。今文の経書と比べると字句に異同があるのはもとより、解釈上の相違もあって、今古文学の論争が激しかった。紀元100年に完成した許慎(きょしん)の『説文(せつもん)解字』は、訓詁学の成果の結集であり、後漢(ごかん)の巨匠鄭玄(じょうげん)が、今日も存する『詩』の箋(せん)や三礼の注をはじめ五経・『論語』にあまねく注し、今古文学を折衷した。
[近藤光男]
魏(ぎ)の学者で『孔子家語(けご)』を偽作したといわれる王粛(おうしゅく)は、事ごとに鄭玄に対して異説をたてた。たとえば、3年の喪の期間は、『儀礼(ぎらい)』士虞礼(しぐれい)の「中月にして禫(たん)(除服の祀(まつ)り)す」の中月をひと月置いてと読む鄭玄が27か月とするのに対して、その月のうちにと読んで25か月とするなど。今日『論語』の古注といえば魏の何晏(かあん)の『論語集解(しっかい)』であり、「集解」すなわち当時の人々の注を集めたものというが、往々にして老荘思想をもって注し、孔子の真意とはほど遠い解を含む。『老子』に注した王弼(おうひつ)の『易』注も老荘思想に基づく。晋(しん)の南渡ののち、魏の経学は南朝に受け継がれ、北朝に後漢の古文学が残った。『北史』儒林伝に「南人(なんじん)は約簡(やくかん)にして其(そ)の英華(えいか)を得、北学(ほくがく)は深蕪(しんぶ)にして其の枝葉を窮(きわ)む」(南人の学は大要をつかむのがうまい。北学は末端まで窮め尽くさねばやまぬ)というのは、南朝の立場からの評である。
[近藤光男]
六朝(りくちょう)で仏経(ぶっきょう)研究の論議の方法が経書(けいしょ)に用いられ、「経」「注」を分析し疏通(そつう)しての討論の結果できた精細な解釈である義疏(ぎそ)が多く生まれた。わが国足利(あしかが)学校に存する梁(りょう)の皇侃(おうがん)の『論語義疏』などその一つである。唐の太宗(たいそう)は顔師古(がんしこ)に命じて五経(ごきょう)の定本をつくらせ、孔穎達(くようだつ)らは義疏を整理して『五経正義』をまとめ、653年(高宗の永徽4)長孫無忌(ちょうそんむき)の上表で奉っている。宋にかけて完結する『十三経注疏』の核心をなし、初唐に陸徳明の『経典釈文(けいてんしゃくもん)』ができている。
[近藤光男]
北宋(ほくそう)の程顥(ていこう)・程頤(ていい)、二程子の道学を受け、南宋に朱熹(しゅき)(朱子)が「大学」「中庸(ちゅうよう)」に章句を、『論語』『孟子(もうし)』に集注を、いわゆる『四書集注』をつくる。『論語集注』で「川上の嘆」を孔子が道体の理を悟ったものと解くなど、道学の面目である。これが新注で、宋明の学は五経よりも四書の学となり、明の『五経大全』『四書大全』は科挙(かきょ)受験の便益であった。しかし朱熹の経学そのものはもとより、宋末の王応麟(おうおうりん)の『困学紀聞(こんがくきぶん)』など、後の清朝の学者たちからも敬意を集める。
[近藤光男]
清朝経学が漢学を標榜(ひょうぼう)するのは、漢代の学は聖人の世に近く、仏老思想の混入もなく純であると考えてであって、陽明学の末流の無学で空論にふける傾向を排し、広範な読書による博学のゆえにこそ深淵(しんえん)である学力に、科学の実証精神をあわせて培われた高い見識をもって、漢学を超えた経学として、乾嘉(けんか)の学が結実した。いわゆる清朝考証学である。『欽定四庫(きんていしこ)全書総目』および『皇清経解(こうせいけいかい)』について、その核心をうかがうことができる。
[近藤光男]
『皮錫瑞著、周予同注『経学歴史』(1928・商務印書館)』▽『本田成之著『支那経学史論』(1927・弘文堂)』▽『滝熊之助著『支那経学史概説』(1934・大明堂書店)』▽『「経学研究序説」(『諸橋轍次著作集2』所収・1976・大修館書店)』▽『「中国思想史」(『武内義雄全集8』所収・1978・角川書店)』▽『「支那人の古典とその生活」(『吉川幸次郎全集2』所収・1968・筑摩書房)』▽『狩野直喜著『中国哲学史』(1953・岩波書店)』▽『加賀栄治著『中国古典解釈史』(1964・勁草書房)』
中国古典の〈経書(けいしよ)〉〈四書五経(ししよごきよう)〉など,の解釈をめぐる学術。〈経書〉は,儒家の奉持した基本文献のことで,単に〈経(けい)〉ともいう。戦国末・秦・漢期の諸子百家のあいだで,儒家をも含めて自家の特定する文献を〈経〉(《墨子》墨弁,《韓非子》内外儲説)・〈経言〉(《管子》前九篇)と呼び,その解説部分を〈説〉(《墨子》《韓非子》など),〈解〉(《管子》など),〈伝〉(《春秋伝》《詩故訓伝》《易伝》など),〈記〉(《儀礼(ぎらい)》《礼記(らいき)》)などと称した。もと,織物の〈たて糸〉の意から転じて,儒家のばあい,〈つねのみち〉,すなわち永久不変の原理を提供する,人間生活の軌範を十全に備えた教義の典籍とされ,内容は孔子や周公など,古代の理想の祖師や聖賢の述作として,権威づけられた。前漢末には,この経書を補うものとして,秦・漢期以来の多くの〈伝記〉〈伝説〉のほかに,〈よこ糸〉を意味する〈緯書〉が制作されている。当時,書名としては《孝経(こうきよう)》が早くから著名であるが,《老子》などにも〈経伝〉〈経説〉があった(《漢書》芸文志)。
儒家の経典は《荀子》にみえる〈礼・楽(がく),詩・書,春秋〉の5種が古く(勧学篇),漢初に成立した《荘子(そうじ)》天運篇に〈孔子が,詩・書,礼・楽,易・春秋の六経(りくけい)を治め〉というように〈六経〉と称し,同時代の賈誼(かぎ)が《新書》六術篇でこれを〈六芸(りくげい)〉と言いかえている。前漢,武帝期に,国家教学として学官に五経博士が置かれ,儒家がそれを独占する前後から,六経の教義は政術に応用される国家学〈六芸〉の位置をしめ,《論語》《孝経》がこれに準ずる扱いをうけるようになった。《荘子》天下篇,《新書》道徳説篇や《史記》滑稽伝・太史公自序,《淮南子(えなんじ)》泰族訓,《礼記》経解篇などには,六経それぞれの道術・道芸としてのあり方,つまり原論〈経書〉の効用を〈温柔敦厚は《詩》の教えなり……属辞(しよくじ)比事は《春秋》の教えなり〉(《礼記》)のように記す。六芸となった経書は,経術・経芸として治政に活用され,〈伝記〉〈伝説〉をともなったこの実際の運用を〈経学〉とも呼んだ(《漢書》児寛(げいかん)伝)。ことに陰陽五行の災異理論を説いた董仲舒(とうちゆうじよ)系〈春秋〉の術芸は,国事の当否を判断し国家の基本政策に深くかかわり,他の経書の応用をも刺激した。
かくて一,二の専門の経書をマスターして師承を重んずる学官は,両漢期を通じて当用の政芸・政術を争い,休祥災異,神仙思想に図讖(としん)(予言説),緯書を採入して,それぞれの経説を展開した。世にいう今文(きんぶん)学である。この,当時通行の隷書(れいしよ)つまり今文で書写されたテキストを用いた博士官とは別に,古文すなわち戦国期の篆書(てんしよ)や籀文(ちゆうぶん)などのテキストを使用する学術も,前漢末に起こった。いわゆる〈古学〉であって,〈経伝〉の訓詁解釈にすぐれ,各経書の今古文にわたる比較研究を促し,漢・魏期の〈注〉釈(故訓,校注)を残している。後漢末の鄭玄(じようげん)にいたってその総合解釈の段階に達し,当面する治政の術芸をこえて,永遠の政教理念の学術へとむかった。六朝期には,礼学(三礼(さんらい)の学)を軸に貴族社会をささえた礼教に関する議論を呼び,漢・魏期の〈経注〉〈伝注〉を敷衍して再解釈をほどこす〈集解(しつかい)〉〈音義〉〈義疏(ぎそ)〉が盛行したが,とくに義疏の学は仏教の論義の影響をうけた討論形式をとっている。その対象は,七経,九経,十二経などを数えるが,隋初に成った音義の集成《経典釈文》には三経(周易,尚書,毛詩),三礼(周礼(しゆらい),儀礼,礼記)と春秋三伝(左氏,公羊(くよう),穀梁(こくりよう))に《論語》《孝経》と古典語字書《爾雅(じが)》を加えた十二経と,別に三玄の書《老子》《荘子》を配した14種を収める。
300年にわたる経書解釈の蓄積の結果,唐初の科挙から課目に経学が課せられ,その標準解釈として勅撰の《五経正義》が〈定本〉とともに編成された。また,そのテキストの公認には,後漢の熹平石経,魏の正始石経(三体石経)のほか,十二経を校定した唐の開成石経などが有名である。なお六朝期には,《易》が道家の経典《老子》《荘子》と組んで〈三玄〉の学として尊ばれ,ならびに仏教の流行や道教の成立にともなってそれらの宗教典籍も〈経(きよう)〉と呼ばれた。とくに李唐の玄宗期には,六朝以来の《老子道徳経》と並んで〈荘子,文子,列子〉などをそれぞれ〈南華(なんげ),道玄,沖虚〉の〈真経(しんぎよう)〉と尊称した。唐・宋の間,〈五経〉以外の諸経書にも義疏が作られたが,この〈注疏〉の学にはすでに思想活動の創造性は失われ,北宋の神宗期(1068-85)に《孟子》が昇格して十二経に加えられ,古注系の標準解釈の叢書《十三経注疏》が完成するころには,新儒学すなわち宋学の活動期に入っていた。
老荘思想や華厳,神学の仏教理念に影響をうけた新儒学は,新興の士大夫官人層によって,道統,宇宙観,人性論など従来の経学と次元の異なる〈理気論〉〈性理学〉が唱えられ,また経世済民の実学が説かれた。そのなかで,経書の自由解釈や文献批判があらわれ,他方,歴史学や名物,金石を対象とする実証的な学術を生んだ。程子(程頤,程顥)や司馬光が〈中庸,大学〉の2篇を《礼記》から抜きだして《論語》《孟子》と組んで〈四書〉として尊奉し,南宋の朱熹(子)がみずからの哲理にもとづく〈章句,集注(しつちゆう)〉を作って〈五経〉へ導入する必携書と規定した。元・明期を通じて,朱子の四書注釈が科挙に課せられ,この新注による勅撰の《四書大全》が著されて,いっそう古注系の経学は軽視された。
明末・清初の陽明学の流行により,朱子学批判が旺盛になる一方,社会の動揺に対処する,東林党などの経世のための実学が主唱され,明朝の滅亡と異民族支配から王夫之,顧炎武,黄宗羲らのつよい民族意識にささえられた,史的実証的で博学と実践を重んずる経学,史学があらわれた。清朝の抑圧により実践的側面はのびず,〈実事求是〉の客観主義的な考証学が伸展して,いわゆる乾隆・嘉慶の学の開花をみた。考証学は,宋・明期の理学,心学の唯心論的な学風を排して,〈漢学〉を標榜する復古主義をとり,漢・魏期の〈伝注〉や六朝期の〈注疏〉を尊重したが,その著しい成果によって,経学は〈目録,輯佚,校勘〉の学を基礎とする近代古典学に変貌をとげ,経書はかくて〈諸子〉文献のなかに列して相対化される結果をみちびいた。ただし,経書の教義と士人知識層の教養の一致をもとめていた旧体制が崩壊するにつれて,経書の権威は失われたが,経学の方法とその変遷のなかに,各時代の文化相をこまやかに反映しているとして,中国思想・文化史をたどるうえで,現在なお重要視されている。
執筆者:戸川 芳郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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