改訂新版 世界大百科事典 「蓼胡蝶」の意味・わかりやすい解説
蓼胡蝶 (たでこちょう)
生没年:1869-1958(明治2-昭和33)
小唄〈蓼派〉初代家元。本名館(たち)なか。東京に生まれ,都一以奈(いちいな)に師事した。一以奈は8世一中没後の一中節を代表した太夫で多くの小唄も残した都以中(みやこいちゆう)の愛弟子で,のち2世清元梅吉の後妻となった人。なかは小唄,一中節,清元を師より習い,18歳から小縫の名で柳橋の芸者となったが,のち小蝶と名を改めて新橋に帰った。1907年に妓籍を退いたが,この間に名妓として巷(ちまた)を賑わせ,伊藤博文をはじめ多くの名士の知友を得た。関東大震災後には小唄の師匠に専念し,27年小唄家元認可。第2次世界大戦後は,小唄界の元老として日本小唄連盟の副会長もつとめた。小唄の作曲者としても優れた才能があり,《三日月の頃より待ちし》(大隈俊武作詞)は小蝶時代の19歳の作品である。
執筆者:柴田 耕穎
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