出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都港区北東端の地区。1710年(宝永7)、北の銀座との境界をなす汐留(しおどめ)川に架けられた新橋を芝口橋と改称したが、引き続き新橋ともよばれていた。江戸時代はおもに銀座側を新橋とよんだが、1872年(明治5)鉄道の起点駅として新橋駅(1914年汐留駅に改称)が設けられてから港区側を新橋とよぶようになった。現在の新橋駅は、1909年(明治42)に烏森(からすもり)駅として設置されたもので、1914年(大正3)に開設された東京駅に起点駅が移った際、現名に改称された。汐留駅(旧、新橋駅)は貨物専用駅となり、1986年(昭和61)廃止され、跡地は再開発されることになった。旧新橋駅の駅舎基礎、ホームの一部、0哩(ゼロマイル)標識は国の史跡として保存されており、再開発に伴い、それらを利用して「旧新橋停車場」が再現された(2002年着工。2003年完成)。また、再開発地区の中心地に2002年(平成14)11月都営地下鉄大江戸線、新交通システム「ゆりかもめ」の「汐留駅」が設置された。
北部を東京地下鉄銀座線が通り、南北方向の都営地下鉄三田(みた)線・浅草線を境として西新橋、新橋、東新橋の3地区に分かれる。
江戸時代に早く市街地となり、駅西口の烏森は茶屋、芸妓(げいぎ)屋の多い花街として栄えた。明治の初め、日本最初の鉄道の起点として、さらに1882年新橋―浅草間に馬車鉄道が通り、交通の中心として発展した。現在は銀座の延長として、とくに飲食店街としてにぎわっている。汐留川は1964年に埋め立てられて消失し、首都高速道路が通り、その下に飲食店などの店舗が集まった銀座ナインがある。旧新橋の南側に『銀座の柳』の歌碑が立っている。都営地下鉄三田線の通る日比谷(ひびや)通りに、浅野内匠頭(たくみのかみ)終焉(しゅうえん)之地碑のある一関(いちのせき)藩主田村邸跡と、東京慈恵会医科大学(とうきょうじけいかいいかだいがく)がある。中国陶磁器をおもに収集している松岡美術館があったが2000年白金台へ移転。新橋駅前の東口、西口ともに再開発によって高層ビル街となっている。
[沢田 清]
東京都港区の地名。汐留川の上を走る首都高速道路を境に中央区銀座と接し,南は芝公園に続く。新橋の名は江戸時代初期に溜池方面から通じている外堀に架けられた東海道の橋の名から起こった。1710年(宝永7)には芝口御門が設けられたため,この橋は芝口橋とも呼ばれた。日本橋へ続く江戸の中心的な町屋(尾張町,銀座町など)の南端に位置しており,烏森(からすもり)の歓楽街がすぐ西にあった。1872年(明治5)新橋~横浜間に鉄道が敷かれ,新橋停車場(のちの汐留貨物駅)が開業すると,東京の玄関口としてにぎわった。なお,鉄道創設を記念する石碑が汐留駅構内に設けられている。1877年ころには銀座商店街の煉瓦街もほぼ完成し,82年には上野へ通じる馬車鉄道の発着場も置かれた。1909年には現在の新橋駅の位置に烏森駅が新設され,橋の北詰には帝国博品館(新橋勧工場(かんこうば))もつくられて商業地としても栄えた。現在,銀座の南の入口であるとともに,内幸町から霞が関のオフィス街,官庁街への通勤者が多く出入りする地区である。JR東海道本線,山手線,地下鉄銀座線,都営地下鉄浅草線などが通る。
執筆者:正井 泰夫
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…これには弾圧もあったが,江戸末期になると各地で芸者遊びが盛んとなり,辰巳(たつみ)芸者,羽織芸者とも呼ばれた江戸の深川芸者が意気と俠気(きようき)とを認められたのを始め,遊郭に代わる新興歓楽地として活況を呈した。明治以後の東京では深川にかわって柳橋が盛んになり,やがて政・官・財界をあげて,新橋を中心として〈待合政治〉をくり広げたため花柳界は大発展した。芸者屋も組合を作り温習会を催して売名と技芸の向上をはかった結果,国際的に〈ゲイシャ〉の名を広めた。…
※「新橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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