蔡元培(読み)さいげんばい

精選版 日本国語大辞典 「蔡元培」の意味・読み・例文・類語

さい‐げんばい【蔡元培】

中国の学者教育家。字(あざな)は孑民(げつみん)浙江紹興の人。ドイツに留学後、革命運動に加わり、清朝弾圧を受け日本に亡命し、孫文、黄興らと交遊。中華民国成立後は北京大学校長として陳独秀、胡適らを起用して文学革命運動を進め、五・四新文化運動の父と呼ばれた。著「中国倫理学史」「石頭記索隠」など。(一八六八‐一九四〇

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デジタル大辞泉 「蔡元培」の意味・読み・例文・類語

さい‐げんばい【蔡元培】

[1868~1940]中国の思想家・教育家。紹興(浙江せっこう省)の人。あざな鶴卿かくけい。号は孑民げつみん末の革命運動に参加。中華民国成立後は初代教育総長・北京大学校長などを歴任文学革命五・四運動を支援。著「哲学綱要」「中国倫理学史」「蔡元培選集」など。ツァイ=ユアンペイ。

ツァイ‐ユアンペイ【蔡元培】

さいげんばい(蔡元培)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔡元培」の意味・わかりやすい解説

蔡元培
さいげんばい / ツァイユワンペイ
(1868―1940)

中国の思想家、教育者。字(あざな)は鶴卿(かくけい)、号は孑民(げつみん)。浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)府山陰県の人。商家に生まれ、清(しん)末の伝統教育を受けて進士に合格、翰林院(かんりんいん)編修となったが、日清(にっしん)戦争を機に西学に志し、官を辞して教育活動に従事し、革命運動に接近、1904年光復会会長に推された。辛亥(しんがい)革命後、1912年中華民国初代教育総長に就任して近代教育の制度と精神の基礎を定め、ついで1917年北京(ペキン)大学校長となり、多くの革新的人材を集めて、新文化運動、さらには五・四運動の陰の力となった。国民政府成立後は中央研究院院長として学術、教育、文化の振興に努めたが、国民党のファッショ化に対しては1932年宋慶齢(そうけいれい)、魯迅(ろじん)らと中国民権保障同盟を結成して抵抗、強靭(きょうじん)な自由主義者の面目を発揮した。1940年3月5日、抗日戦争中に香港(ホンコン)で死去した。著述は『蔡元培全集』全7巻にまとめられている。

[丸山松幸]

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改訂新版 世界大百科事典 「蔡元培」の意味・わかりやすい解説

蔡元培 (さいげんばい)
Cài Yuán péi
生没年:1868-1940

中国の教育家,学者。浙江省紹興府出身。原名は鶴卿,字は孑民(けつみん)。清末の進士で戊戌(ぼじゆつ)政変後,中国教育会や愛国学社,愛国女学を創設して清朝打倒の革命の道に入る。1904年(光緒30)光復会を作り,翌年中国同盟会に加入した。07年よりドイツに留学しライプチヒ大学で学ぶ。12年中華民国臨時政府成立とともに教育総長に就任し,新たな教育目標として軍国民・実利・公民道徳・世界観・美育の五教育主義の実現を掲げた。だが,改革の夢破れて半年で辞職し,渡欧後フランスで勤工倹学会を組織する。17年北京大学校長に就任し,陳独秀,胡適,李大釗(りたいしよう)らを登用して大学の旧態依然たる体質を一変し,五・四運動に大きな影響を与えた。27年以降国民政府の下で大学院長,中央研究院院長の要職についたが,その反動化に疑問を抱き,32年宋慶齢らと中国民権保障同盟を結成して進歩的知識人としての良心を示した。また日本の侵略に対する抗議活動を続け,日中戦争開始後は香港に移り,その地で病没した。中国学術界の近代化に果たしたその役割は,政治における孫文のそれと並称されるものである。
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百科事典マイペディア 「蔡元培」の意味・わかりやすい解説

蔡元培【さいげんばい】

中国,清末〜民国の思想家。浙江省紹興の人。章炳麟らと光復会を組織したが,1907年ドイツに留学。辛亥革命後,臨時政府の初代教育総長となり,学制の基礎を置く。また北京大学校長としてすぐれた学者を集め,文学革命の拠点とした。著書《中国倫理学史》等。
→関連項目宋慶齢北京大学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蔡元培」の意味・わかりやすい解説

蔡元培
さいげんばい
Cai Yuan-pei

[生]同治7(1868).1.11.
[没]1940.3.5. ホンコン
中国の倫理学者,教育家。浙江省紹興の人。字は鶴卿。号は孑 (けつ) 民。光緒 28 (1902) 年中国教育会を組織し,次いで愛国学社を設立し,革命教育に努力。辛亥革命後,中華民国初代教育総長となったが,軍閥と衝突し7ヵ月で辞任。この前後ドイツに留学,1916年帰国後北京大学学長となり,五・四運動の機運醸成に寄与した。 32年宋慶齢 (主席) とともに中国民権保障同盟を設立 (副主席) ,反動政治に対抗した。著書に『中国倫理学史』 (17) などがある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「蔡元培」の解説

蔡元培(さいげんばい)
Cai Yuanpei

1868~1940

中国の思想家,教育家。浙江(せっこう)省紹興の人。教育総長,北京大学校長を歴任。五・四運動を支持し,学制改革,固有文化の評価などに貢献,国民党の反動化に反対,民主主義者として活躍した。

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世界大百科事典(旧版)内の蔡元培の言及

【光復会】より

…帝政ロシアの東北(旧満州)侵略を引金に,1904年(光緒30)冬,上海で結成された。初代会長は蔡元培であったが,終始,章炳麟の強い影響下にあった。ほかに,陶成章,徐錫麟(じよしやくりん),秋瑾らも有名で,広く江浙一帯の教育界,商業界,会党からの支持を得ていた。…

【五・四運動】より

…ロシア革命の成功により,〈能力に応じて働き,必要に応じて受け取る〉理想社会の建設の夢が進歩的知識人の心をとらえた。1918年12月の北京の大戦祝勝会で,蔡元培が〈労働神聖〉を,李大釗が〈庶民の勝利〉を演説したのは,そのような社会思潮の反映だったが,同時に民主と科学が社会主義と結びつけられはじめたことの象徴でもあった。ロシア革命ないし働くものの社会に共感を示すようなものは,支配階級からは過激派(ボリシェビキの当時の訳語)とみなされていたが,五・四運動の経験をふまえて実際に中国の共産主義者の隊列が形成される。…

【中国民権保障同盟】より

…趣旨は国民党反動派の白色テロに反対し,人民の言論,出版,結社の自由を守り,すべての愛国的,革命的政治犯を救済するにあった。1932年12月,宋慶齢を主席,蔡元培を副主席,楊杏仏を幹事長として発足し,ただちに陳独秀,許徳珩,廖承志,丁玲らの救済を試みている。上海,北京などに分会を有し,魯迅も上海分会の執行委員として名を連ねていた。…

【北京大学】より

…1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。17年,蔡元培が学長に就任して,陳独秀を文科科長に据え,李大釗(りたいしよう),魯迅などを招聘し,アカデミックな大学に改革して以来,名実ともに学問の殿堂としての陣容を整えた。19年の五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。…

※「蔡元培」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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