中国、清(しん)末から中華民国初期の思想家、学者。字(あざな)は枚叔(ばいしゅく)。号は太炎。同治7年11月30日(西暦1月12日)浙江(せっこう)省余杭(よこう)県に生まれる。若くして清末最大の学者兪樾(ゆえつ)に考証学を学び、当時流行していた今文(きんぶん)学派の公羊(くよう)学は好まず、実証的な古文学者となった。日清戦争の敗北に衝撃を受け、変法運動にはジャーナリストとして独特な形でかかわった。1900年の義和団事件を契機に革命を決意し、1902年(明治35)日本で「支那(しな)亡国二四二年紀念会」を開こうとしたが阻止された。1903年『蘇報(そほう)』に「康有為(こうゆうい)を駁(ばく)して革命を論ずる書」を書き、康有為らの、光緒帝(こうしょてい)による上からの改良主義を批判し、漢民族による下からの革命を訴え、革命支持の世論を喚起した。これがもとで下獄(『蘇報』事件)。1906年出獄後来日し、革命派の中央機関誌『民報』の主筆となり、「革命の道徳」「五無論」などを発表し、仏教の華厳(けごん)・法相(ほっそう)思想による革命道徳の提唱、無生主義による民族主義の位置づけなど、革命家はいかにあるべきか、革命はいかにあるべきかを追究し、革命思想を深化させた。のち、孫文(そんぶん)派と不和になり、資金を断たれ、その直後に『民報』が発禁となった。辛亥(しんがい)革命直後、1911年11月帰国し、中華民国を維持するため、旧立憲派と中華民国連合会などを組織し、人物に疑いをもっていた袁世凱(えんせいがい)に民国維持の望みをかけ、孫文、黄興(こうこう)ら革命派を過小評価し、彼らとたもとを分かった。のち、反袁に転じ幽閉されたが、袁を徹底的に批判した。1916年袁の死後釈放され、以後しだいに政治から離れ、「国学」大師として後進の指導、学問著述に専念した。新文化運動に際しては批判的で新知識人と対立したが、晩年、日本の侵略が激化すると、国民政府の不抵抗策を批判し、抗日を主張した。著作は『章氏叢書(そうしょ)』に収められている。
[阿川修三 2016年3月18日]
『西順蔵・近藤邦康編訳『章炳麟集――清末の民族革命思想』(岩波文庫)』▽『高田淳著『章炳麟・章士釗・魯迅――辛亥の生と死と』(1974・龍渓書舎)』▽『近藤邦康著『中国近代思想史研究』(1981・勁草書房)』
中国,辛亥革命の革命家,同時にいわゆる国学の大学者。字は枚叔,号は太炎。浙江省杭州府余杭県の人。早くから兪樾(ゆえつ)の下で考証学を研究し,経学ではあくまで《春秋左氏伝》による古文学派の立場をつらぬき,今文学派と対抗した。彼が孔子教運動に一貫して反対したのはその古文学派的立場に基づく。音韻学,方言学,諸子学では画期的な成果をあげ,仏教哲学とくに唯識哲学や因明学によって荘子や名学(古代論理学)を解釈するなど,中国の伝統諸学・清朝考証学を〈国学〉に改鋳するのに最も大きく貢献した。また,拼音(ピンイン)方式以前中国の国語普及運動の武器となった注音字母(ちゅういんじぼ)は彼の発明である。魯迅もその門下であるほか,民国期の北京大学の国学系教授はほとんどその門下で占められたといわれる。同時に彼は孫文,黄興とともに〈辛亥革命の三尊〉に数えられるように,そして民国政府から勲一位を贈られたように,早くから熱烈な民族主義革命家であり,その宣伝部門における最大の功労者であった。1902年再度の日本亡命の際〈支那亡国二百四十二年紀念会〉の挙行を企てたが,これが留日学生の革命結社続出のきっかけとなった。亡国とは,漢民族国家としての中国は明の滅亡とともにいったん滅びたとの意である。03年〈康有為を駁して革命を論ずるの書〉を発表,光緒帝の御名(ぎよめい)を呼びすてにして小醜とののしり,改革主義に反対して民族革命の大義を宣揚した。これが中国内地における公然たる革命主張の開始である。出獄後三たび日本に亡命,中国同盟会の機関誌《民報》の主筆となり,アジアの被侵略民族の団結をとなえ,亜洲和親会を発起したりした。しかしやがて孫文派と反目するようになる。辛亥革命勃発によって帰国。同盟会を離れて政客的動きを示すようになる。しかし袁世凱によって北京に軟禁せられること3年,ついに屈しなかった。1916年,護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として広東,雲南,四川を転戦したが,以後は政界を去り,蘇州に章氏国学講習会を起こして講学した。
執筆者:島田 虔次
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07の学者,政治家
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1869~1936
清末民国初期の学者,革命家。浙江(せっこう)省余杭県の人。号は太炎(たいえん)。初め考証学を修めたが,変法運動に共鳴して強学会に参加,『時務報』に革新的な論説を発表した。戊戌(ぼじゅつ)の政変後は清朝打倒,種族革命を鼓吹して孫文の革命派に接近し,一時『民報』の主筆になったこともある。1910年,光復会の会長になり,民国政府の顧問ともなったが,袁世凱(えんせいがい)の帝政に反対して失脚,以後国学の研究に専念して多くの業績を残した。
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…墓は長沙西郊岳麓山にある。理論・組織の孫文,文章・宣伝の章炳麟と黄興とを〈辛亥革命の三尊〉とよぶが,自己犠牲の敢闘精神に溢れた黄興の生涯はまさしく革命家としてのそれであった。なお宮崎滔天とは終生あい許しあい,日本人のなかではもっとも親密な間柄であった。…
…帝政ロシアの東北(旧満州)侵略を引金に,1904年(光緒30)冬,上海で結成された。初代会長は蔡元培であったが,終始,章炳麟の強い影響下にあった。ほかに,陶成章,徐錫麟(じよしやくりん),秋瑾らも有名で,広く江浙一帯の教育界,商業界,会党からの支持を得ていた。…
…そうした風潮に対して,19年の五・四運動の前後から,中国固有の伝統思想や文化を学術的立場から新たに再検討し再評価しようとする運動が出現,それを国故整理運動という。国故整理の動きは,早くに清末の章炳麟を元祖とするが,より直接的には,17年にアメリカから帰国して北京大学教授となった26歳の胡適が書いた《中国哲学史大綱》(上巻,1919)を創始とし,およそ四つの分野からなる。第1は,胡適や梁啓超の《先秦政治思想史》に代表される先秦の諸子百家および仏教などについての思想史的研究。…
…表には残り37を示す。字母は,主にきわめて簡単な楷書の文字から採用されており,章炳麟の提案と一致するものが多い。〈注音符号〉とも呼ばれる。…
…反満共和のするどい主張は,ながらく進歩的言論界を牛耳ってきた《新民叢報》に代表される改良主義の論調を圧倒した。06年7月,蘇報事件の3年の刑期をつとめあげた章炳麟が来日して《民報》の主筆となると,彼の学者革命家としての名声が革命派の声価をいっそうたかめたが,彼は孫文とあわず,そのため同盟会は内部分裂を起こすことになる。その遠因は孫文,黄興らが華南での武装蜂起路線に執着しすぎたことにあるが(1906年12月から08年4月の間に6度),09年10月に孫文らは香港に南方支部をつくり,11年7月,宋教仁らは〈長江革命〉をとなえて上海に中部総会をつくった。…
…清末の漢民族の民族意識の高まりは,かくして辮髪を切ることが,異民族支配への抵抗の象徴となった。たとえば激烈な国粋学者章炳麟(しようへいりん)は,唐才常が自立軍を起こした際,断髪してその決意を示し,《解辮髪》を著した。《阿Q正伝》をはじめ魯迅の作品には辮髪の象徴的な意味がつねに描かれている。…
…さらに王念孫が21部,江有誥(こうゆうこう)も《音学十書》において21部とする。その後章炳麟(しようへいりん)は《国故論衡》で23部,黄侃(こうかん)は28部と,時代がくだるにしたがい精密さを増していった。今では王力の29部が最も新しい部分けである。…
※「章炳麟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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