ドンズー運動失敗の後,広東に移ったファン・ボイ・チャウらが1912年に設立したベトナムの革命組織。維新会の後身。盟主にクオン・デ(彊)を推戴し,抗仏武力闘争と民主共和制の樹立を標榜した。会は広東に光復軍を組織してベトナム国内への進攻を企図するとともに,辛亥革命後の中国からの資金援助を期待して振華興亜会を設立した。しかし13年から17年までファン・ボイ・チャウが広東軍閥の手で投獄され,このために会の活動は系統だった組織として展開されたというよりも,ベトナム国内や中国各地で光復会や光復軍を名乗る活動家たちによってばらばらに進められる状況を呈した(例えば17年ベトナム北部のタイグエン監獄での蜂起など)。しかしそれらの活動はさしたる成果をみないで終わり,20年代半ばまでに会は名実ともに解体した。以降ベトナムの民族運動はグエン・タイ・ホク,ホー・チ・ミンらの次代の指導者に受け継がれていく。
執筆者:白石 昌也
中国,清末の民族・民主革命結社。帝政ロシアの東北(旧満州)侵略を引金に,1904年(光緒30)冬,上海で結成された。初代会長は蔡元培であったが,終始,章炳麟の強い影響下にあった。ほかに,陶成章,徐錫麟(じよしゃくりん),秋瑾らも有名で,広く江浙一帯の教育界,商業界,会党からの支持を得ていた。大通学堂は,その宣伝および教育機関,会党の竜華会(りゆうげかい)は,主要な実戦部隊であった。05年の中国同盟会成立後も光復会の組織は維持され,辛亥革命の成功直後にまで至った。浙江人を中心とした光復会は,同盟会内部においても,独自の立場を保持し,強く民族主義的立場を貫き,孫文らと意見を異にしたことがしばしばであった。このため,同盟会内紛の一原因ともなった。革命とは旧物を光復する,つまり中華の栄光を回復するという国粋主義を堅持することにその特徴があり,辛亥革命前の各種革命団体の中でも最も急進的な存在であったといえよう。
執筆者:藤本 博生
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中国、清(しん)末の革命団体。1904年冬、上海(シャンハイ)で正式に成立した。会長は蔡元培(さいげんばい/ツァイユワンペイ)。興中会の広東(カントン)、華興(かこう)会の湖南(こなん/フーナン)に対し、光復会は浙江(せっこう/チョーチヤン)省を地盤としていた。05年3派は大同団結し、孫文(そんぶん/スンウェン)を総理として東京で中国同盟会を結成した。しかし、光復会の一部会員は合同に不賛成で、以後も独立性を維持した。それには、同派の理論的指導者であった章炳麟(しょうへいりん/チャンピンリン)の国粋主義的、復古主義的な個性が多少影響していた。そのため、10年、陶成章が南洋に赴き、東京にいる章炳麟を会長にして、改めて光復会を組織し直した。また同時に光復軍という秘密の軍事組織もつくった。11年の辛亥(しんがい)革命のとき、光復軍は汕頭(スワトウ)、浙江、上海などで活躍した。しかし12年陶成章が暗殺されると、光復会は事実上解体していった。
[倉橋正直]
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清末,浙江(せっこう)派の革命団体。1904年冬結成。会長は蔡元培(さいげんばい),会員は陶成章(とうせいしょう),章炳麟(しょうへいりん),熊成基(ゆうせいき),秋瑾(しゅうきん)ら。10年に改組して章炳麟が会長,陶成章が副会長となり,南洋華僑(かきょう)の支持を受けて孫文の中国同盟会に対抗した。
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…09年日本政府は日仏協約によりチャウらを追放し,チャウはタイに亡命した。このころチャウはすでに孫文らの民権思想に共鳴しており,12年の辛亥革命の成功とともに広東に渡って光復会を結成,中国革命同盟会の支援の下に本格的な武力革命を準備したが,14年広東都督の竜斉光に逮捕され入獄した。この時,《獄中書》が記された。…
※「光復会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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