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評論家。東京生れ。東京外語露語科在学中に第3次《ロシア文学》を創刊。卒業後,1925年にソ連留学。翌年帰国,まもなく日本プロレタリア芸術連盟に参加,《現代日本文学と無産階級》(1927)等の評論で注目された。28年中野重治らと共産党支持の芸術組織ナップ(全日本無産者芸術連盟)を結成,この組織を中心にプロレタリア文学・芸術が作品面でも運動面でも空前の高揚に向かうその先頭に立った。作品制作におけるプロレタリア・リアリズムと政治的前衛の観点という主張は,小林多喜二ら多くのプロレタリア作家に影響を与えて,その文学・芸術運動を共産主義文学・芸術運動に導き,やがて31-32年に,共産党の政治主義によって運動が孤立し崩壊する道行きをも彼が主導することになった。しかしその間の《芸術的方法についての感想》(1931)等は国際プロレタリア文学運動のなかで出色の評論といってよい水準を示している。32-40年まで在獄,非転向。敗戦後は新日本文学会の結成,共産党文化部長として活動した。
執筆者:小田切 秀雄
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昭和期の文芸評論家 日本共産党名誉幹部会委員。
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文芸評論家。東京・麻布の生まれ。東京外国語専門学校(現東京外国語大学)露語科卒業。1926年(大正15)11月当時のソ連からの帰国後、マルクス主義的な文芸批評、基本文献の翻訳、紹介活動を展開。『プロレタリヤ・レアリズムへの道』(1928)、『プロレタリア芸術運動の組織問題』(1931)その他の論文により、プロレタリア文学の方法論、文化運動の組織化に指導的役割を果たし、ナップおよびコップの理論家として第一人者の位置を占めた。32年(昭和7)検挙されたがのち非転向で出獄。第二次世界大戦後は日本共産党の文化運動の指導者として活躍。評論集『芸術と無産階級』(1929)、『プロレタリアートと文化の問題』(1932)、『芸術論』(1932)ほかの著書がある。
[大塚 博]
『『蔵原惟人評論集』全10巻(1966~79・新日本出版社)』
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…中野重治はその6月号に〈いはゆる芸術の大衆化論の誤りについて〉を書き,通俗化・迎合・水うめ等によってプロレタリア芸術の大衆化をはかる傾向をはげしく論難し,芸術家としての頑固な進み方で大衆の真実に迫ることを要求した。これに対して,蔵原惟人がただちに批判して〈大衆の直接的アジ・プロの為の芸術運動〉も必要だとした。中野が芸術運動を,プロレタリア芸術確立を目ざすものとアジ・プロのためとの二つに分ける考え方に反論すると,蔵原が再論した。…
…1931年10月末にナップ(全日本無産者芸術団体協議会)を母体に文化団体の運動の統一,連絡のための協議会として結成。文化運動への日本共産党の影響が強まり,共産党宣伝煽動部の文化団体責任者蔵原惟人(筆名古川荘一郎)の提唱,指導で9月から準備会を開き結成に至った。結成時の加盟団体は日本プロレタリア作家同盟,日本プロレタリア映画同盟,日本プロレタリア演劇同盟,日本プロレタリア・エスペランティスト同盟,日本プロレタリア音楽家同盟,日本プロレタリア美術家同盟,日本プロレタリア写真家同盟,日本戦闘的無神論者同盟,無産者産児制限同盟,プロレタリア科学研究所,新興教育研究所の11団体で,のちにプロレタリア図書館が加盟した。…
…職場,地域,学校などの仲間が自発的にする文化活動。〈サークルcircle〉という言葉が,文化活動を担う小集団を指して使われたのは,1931年6月に蔵原惟人がソビエトの用語例にならって,全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌《ナップ》で紹介したのが最初といわれる。その後コップが創設されて,〈サークル〉とは,革命思想を日本の大衆の中につくりだしていくための文化運動の小単位という意味で用いられ,コップ指導部は文化に対する政治の優位性を強調して,工場や農村にサークルを組織し,政治的課題に積極的に参加することを提唱した。…
…全41冊。28年3月の三・一五事件に抗するため,蔵原惟人らの前衛芸術家同盟と中野重治らのプロレタリア芸術連盟がその月のうちに合同し,結成したナップ(全日本無産者芸術連盟)の機関誌。それまでの蔵原らの機関誌《前衛》と中野らの機関誌《プロレタリア芸術》との合体であり,《文芸戦線》の社会民主主義的傾向に対して,共産主義芸術運動の展開をめざした。…
… 《種蒔く人》は23年の関東大震災でつぶれたが,翌年《文芸戦線》として再出発,やがて大正末~昭和初年の革命運動の高揚に伴ってプロレタリア文学運動も活気を呈した。一方で葉山嘉樹の長編《海に生くる人々》(1926)のような傑作が刊行されるとともに(この作は日本プロレタリア文学の最初の記念碑的作品として今なお生きている),他方では青野季吉の《自然生長と目的意識》(1926)や蔵原惟人の《プロレタリア・レアリズムへの道》(1928)などの論文を通して,革命と文学との関係が問いつめられるようになった。青野のそれはレーニンの《何をなすべきか》の文学運動への適用の試みであり,蔵原のはプロレタリア文学においてのリアリズムの主体に〈党(共産党)の観点〉をすえつけようとしたものである。…
※「蔵原惟人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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