日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原基房」の意味・わかりやすい解説
藤原基房
ふじわらのもとふさ
(1145―1230)
鎌倉前期の政治家。松殿(まつどの)、菩提院(ぼだいいん)、中山と称す。法名善観。父は忠通(ただみち)、母は源国信(くにのぶ)の女(むすめ)俊子。1166年(仁安1)兄近衛基実(このえもとざね)に次いで摂政(せっしょう)となる。79年(治承3)、平清盛(きよもり)は後白河院(ごしらかわいん)を幽し、基房の関白(かんぱく)を停(とど)めて備前(びぜん)(岡山県)に流した。基房は出家し、翌年召還ののち、近衛基通(もとみち)、九条兼実(くじょうかねざね)に対抗して、平氏を逐(お)って入京した源義仲(よしなか)の力で子師家(もろいえ)を摂政とした。しかし義仲の没落により師家が失脚したため、以後は松殿家摂関就任の圏外に置かれた。寛喜(かんき)2年12月28日没。基房は朝儀に通じ、有職(ゆうそく)の先達として朝廷に重んぜられた。後白河院が作成させた『年中行事絵巻』の解説を依頼されたことは、その代表的事績として伝えられている。
[多賀宗隼]
『多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館)』▽『『年中行事絵巻』(1978・角川書店)』