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藤原基房 ふじわらのもとふさ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原基房
ふじわらのもとふさ

[生]久安1(1145).京都
[没]寛喜2(1230).12.28. 京都
平安時代末期の廷臣。関白忠通の次男。松殿,中山菩提院などと呼ばれた。保元1 (1156) 年正五位下となり,権中納言内大臣左近衛大将右大臣を経て長寛2 (64) 年左大臣。仁安1 (66) 年後白河院政下で摂政,関白となったが,平氏抑圧を策して平清盛によって治承3 (79) 年解任された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原基房 ふじわらの-もとふさ

1145-1231* 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安元年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。母は源国信(くにざね)の娘。永万2年(1166)兄近衛基実(このえ-もとざね)の死で摂政をつぎ,太政大臣,関白を歴任。治承(じしょう)3年(1179)平清盛と対立して備前に流された。のち源義仲とむすんだが,義仲の敗死で政界をしりぞき,以後は公事(くじ)の識者として諮問(しもん)にあずかった。寛喜(かんぎ)2年12月28日死去。86歳。号は松殿,中山,菩提院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原基房

没年:寛喜2.12.28(1231.2.1)
生年:久安1(1145)
平安末期の公卿。摂政・関白藤原忠通の次男。母は権中納言源国信の娘国子(一説に俊子)。松殿,菩提院,中山と号した。保元1(1156)年に元服して正五位下となり,翌年に従三位・権中納言,永暦1(1160)年に権大納言から内大臣に,長寛2(1164)年左大臣に上る。仁安1(1166)年異母兄基実が24歳で亡くなると,その嫡子基通が幼かったために,摂政・氏長者となる。時に22歳。基実,基通父子が平清盛の娘を妻として平家の後見と連携の下に在ったのに対し,嘉応2(1170)年平重盛の子資盛と闘乱事件(殿下乗合事件)を起こし,のちに後白河上皇と結んで平家と対立。治承3(1179)年11月の清盛のクーデタで解官されて大宰府(のち備前国)に配流された。その後木曾義仲と結び子の師家の摂政が一時実現するが,義仲の死後は政治の表舞台から去り,菩提院に隠棲。源平の争乱に翻弄された生涯だったが,「公事の先達」として,のちのちまで公事の諮問に預かった。

(土谷恵)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのもとふさ【藤原基房】

1144‐1230(天養1‐寛喜2)
平安末~鎌倉初期の公卿。関白忠通の次男。松殿と号する。1166年(仁安1)摂政,氏長者となったが,このとき平清盛の介入で兄基実の遺領を実質的に平氏に取られ,さらにのちには〈殿下乗合事件〉で平重盛に恥辱を被り,反平氏の感情をもった。79年(治承3)故基実の室平盛子(清盛の娘)が没すると,白河上皇と示し合わせて故基実の遺領を院領にするなど反平氏的政策をとった。そのため清盛の怒りにふれ,同年大宰府へ配流されたが,出家したので備前配流に変更された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原基房
ふじわらのもとふさ
(1145―1230)

鎌倉前期の政治家。松殿(まつどの)、菩提院(ぼだいいん)、中山と称す。法名善観。父は忠通(ただみち)、母は源国信(くにのぶ)の女(むすめ)俊子。1166年(仁安1)兄近衛基実(このえもとざね)に次いで摂政(せっしょう)となる。79年(治承3)、平清盛(きよもり)は後白河院(ごしらかわいん)を幽し、基房の関白(かんぱく)を停(とど)めて備前(びぜん)(岡山県)に流した。基房は出家し、翌年召還ののち、近衛基通(もとみち)、九条兼実(くじょうかねざね)に対抗して、平氏を逐(お)って入京した源義仲(よしなか)の力で子師家(もろいえ)を摂政とした。しかし義仲の没落により師家が失脚したため、以後は松殿家摂関就任の圏外に置かれた。寛喜(かんき)2年12月28日没。基房は朝儀に通じ、有職(ゆうそく)の先達として朝廷に重んぜられた。後白河院が作成させた『年中行事絵巻』の解説を依頼されたことは、その代表的事績として伝えられている。[多賀宗隼]
『多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館) ▽『年中行事絵巻』(1978・角川書店)』

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世界大百科事典内の藤原基房の言及

【髻切】より

…中世では本鳥切とも書いた。《古事談》に,在原業平が二条后を盗み去ろうとして奪い返されたうえに,髻を切られたことが見え,《源平盛衰記》に,平重盛が息子が辱められた意趣返しに,兵をもって摂政藤原基房の車を襲い,基房随従の数人の髻を切ったことが見えるなど,中世の犯罪史にもしばしば現れる特異な犯罪である。烏帽子(えぼし)をもって社会的身分を表す最も有力な外的表徴とした時代にあって,結髪および烏帽子の装着に必須な髻を切断することは,被害者の社会生活を麻痺させるばかりでなく,その人の体面を失わせる凌辱的行為とみなされ,その意味で,女性の髪を切り落とす暴行に比すべき犯罪であったが,これに加えて次の2点が,この犯罪をより特異かつ重大なものとしたと考えられる。…

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