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玄昉 げんぼう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

玄昉
げんぼう

[生]?
[没]天平18(746).6.18.
奈良時代前期の法相宗の僧。俗姓阿刀氏。霊亀2 (716) 年,学問僧として入唐。在唐 19年に及び,天平7 (735) 年,帰国。その際,経論五千余巻および諸仏像を将来,同9年右大臣藤原武智麻呂らの死後,一躍僧正に任じられ,内道場に侍して,橘諸兄吉備真備らと結託し政界に重きをなすにいたった。

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デジタル大辞泉の解説

げんぼう〔ゲンバウ〕【玄昉】

[?~746]奈良前期の法相(ほっそう)宗の僧。大和の人。俗姓、阿刀(あと)氏。霊亀2年(716)入唐し、天平7年(735)帰国。橘諸兄(たちばなのもろえ)のもとで吉備真備(きびのまきび)とともに権勢を振るい、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱を招いた。のち失脚し、筑紫(つくし)観世音寺に左遷され、当地で没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

玄昉 げんぼう

?-746 奈良時代の僧。
義淵(ぎいん)に師事。養老元年唐(とう)(中国)にわたり,智周に法相(ほっそう)をまなび,玄宗皇帝より紫衣(しえ)をあたえられる。経論五千余巻をもって帰国。興福寺に法相宗をつたえる。僧正に任じられ,宮中で吉備真備(きびの-まきび)とともに権力をふるう。天平(てんぴょう)12年藤原広嗣(ひろつぐ)が乱をおこすなど反感をかい,17年筑紫(つくし)観世音寺に左遷された。天平18年6月死去。俗姓は阿刀(あと)。

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世界大百科事典 第2版の解説

げんぼう【玄昉】

?‐746(天平18)
奈良時代の僧。俗姓は阿刀氏。716年(霊亀2)学問僧に任じられ,翌年入唐し,法相宗を学び,玄宗皇帝から紫の袈裟(けさ)着用を許された。735年(天平7)諸仏像と経論5000余巻をたずさえ帰国,経論を光明皇后の写経所に提供し,皇后発願の一切経(五月一日経)など書写の原本とされた。封戸(ふこ)や水田,童子を賜り,皇后は彼のため海竜王寺を左京一条二坊に建立した。737年疱瘡(ほうそう)飢饉の猛威に除災招福が切望され,彼は僧正に任ぜられ,宮中の内道場で仏事を主宰して勢威を高め,藤原宮子(聖武天皇の母)の鬱病(うつびよう)を快癒させ,賞された。

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大辞林 第三版の解説

げんぼう【玄昉】

?~746) 奈良時代の法相宗の僧。大和の阿刀あと氏出身。716年入唐、735年帰朝。皇太夫人藤原宮子の病を快癒させ栄進、権勢をふるったことで藤原広嗣ひろつぐの乱の因となった。のち筑紫観世音寺に左遷。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


げんぼう
(?―746)

奈良時代の法相(ほっそう)宗の僧。俗姓阿刀(あと)氏。出家して義淵(ぎえん)の弟子となった。717年(養老1)入唐(にっとう)して法相宗の智周(ちしゅう)について学んだ。やがて玄宗(げんそう)皇帝に召見され、三品(さんぼん)の位に准じられ紫衣(しえ)を賜った。735年(天平7)帰国、日本へ法相宗を伝えた4番目の人(第四伝)とされる。興福寺に住し、その系統の法相教学は、興福寺伝(北寺伝)とよばれている。帰国に際し、『開元録(かいげんろく)』に記載されている5000余巻の経論を将来したものと思われ、以後、日本の写経の書目が増大した。737年僧正(そうじょう)に任ぜられ、紫袈裟(むらさきげさ)を賜った。皇太夫人藤原宮子(みやこ)の看病をして功あり、宮中の内道場(ないどうじょう)に仕える。それを契機に政治に参与し、吉備真備(きびのまきび)とともに藤原氏にかわって権力を振るい、人々に憎まれた。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)は玄と吉備真備を除くよう要求して740年九州で乱を起こし敗死したが、玄も745年筑紫(つくし)(福岡県)観世音寺(かんぜおんじ)に左遷され、翌年同地で没した。弟子に慈訓(じきん)、善珠(ぜんじゅ)らがいる。[田村晃祐]

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世界大百科事典内の玄昉の言及

【巡礼】より

…この山は,5世紀の北魏のころから《華厳経》にみえる文殊菩薩の住地たる清涼山にあたると信ぜられ,唐代になると,仏教界第一の霊地として中国ばかりでなく東アジアの全仏教界にその名を知られた。日本の僧侶も,唐代には玄昉(げんぼう)や円仁,宋代には奝然(ちようねん)や成尋などが,いずれも五台山巡礼を行っている。なかでも,〈巡礼〉ということばを書名に含んでいる円仁の《入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)》は,五台山仏教全盛期における大華厳寺以下の諸院を巡礼した次第をていねいに記録している。…

【藤原広嗣の乱】より

…唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。…

【藤原宮子】より

…また皇太后でもあったが,749年(天平勝宝1)7月の孝謙天皇の即位により,太皇太后となった。宮子は聖武天皇を生んで以来幽憂に沈み,久しく人事を廃していたが,玄昉(げんぼう)の看護によって開晤し,737年(天平9)12月はじめて聖武天皇と対面したという。754年7月中宮において没し,佐保山の墓で火葬されたという。…

【法相宗】より

…これらは同系統に属し,平城右京に元興寺が創建されるに及んで法相宗も移り,元興寺伝,南伝といわれた。703年(大宝3)に智鳳,智雄らが入唐し,また717年(養老1)に入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も,ともに濮陽の智周に師事して法相を修め,帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し,興福寺法相宗の基をきずいた。…

【留学】より

…しかし701年(大宝1)の遣唐使が派遣されるころから,留学生のほとんどは唐に渡った。とくに717年(養老1)に出発した遣唐使には吉備真備(きびのまきび),阿倍仲麻呂玄昉(げんぼう),大倭長岡(やまとのながおか)らが随行し,彼らの学業は長安でも高く評価されたという。仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。…

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