大野東人(読み)オオノノアズマヒト

デジタル大辞泉 「大野東人」の意味・読み・例文・類語

おおの‐の‐あずまひと〔おほの‐あづまひと〕【大野東人】

[?~742]奈良時代武将蝦夷えぞ征討参加、のち鎮守府将軍天平12年(740)藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱を鎮定

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精選版 日本国語大辞典 「大野東人」の意味・読み・例文・類語

おおの‐の‐あずまひと【大野東人】

  1. 奈良時代の武将。長年蝦夷(えぞ)征伐に従い、多賀城を築き、鎮守府将軍、陸奥按擦使となる。のち大将軍となり、藤原広嗣の乱を平定。あずまんど。天平一四年(七四二)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「大野東人」の意味・わかりやすい解説

大野東人 (おおののあずまひと)
生没年:?-742(天平14)

奈良時代の武人壬申の乱で,近江朝廷側の将軍として勇名を馳せた果安(はたやす)の子。724年(神亀1)に起こった蝦夷の反乱の鎮定に派遣されて以来,しばらく奥羽の蝦夷勢力の制圧に活躍する。729年(天平1)陸奥鎮守将軍の任にあり,734年には陸奥按察使(あぜち)として,出羽国の男勝(おかち)村を征して,陸奥国多賀城から出羽柵(でわのさく)に至る直通道路を開くことを建言。みずから6000の兵を率いて遠征を行い,出羽の蝦夷を帰順させて,道路を開くことに成功した。739年参議に任命され,時に陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守(やまとのかみ)従四位上勲四等。翌年9月九州の大宰府で藤原広嗣の乱が起こるとただちに持節征夷大将軍に任ぜられ,兵1万7000を率いて西下,11月にこれを討った。翌年従三位,恭仁京(くにきよう)行幸に際して平城京留守を命ぜられる。女は藤原永手の室の仲仟(なかち)で光仁朝の後宮で活躍した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野東人」の意味・わかりやすい解説

大野東人
おおののあずまひと
(?―742)

奈良前期の武将。壬申(じんしん)の乱の近江(おうみ)朝廷側の武将果安(はたやす)の子。714年(和銅7)騎兵170騎を率いて新羅(しらぎ)使の入京を迎えた。724年(神亀1)陸奥(むつ)国の蝦夷(えみし)の反乱征討に活躍し、翌年従(じゅ)四位下勲四等に叙せられた。729年(天平1)には鎮守将軍であり、737年陸奥按察使(あぜち)として多賀城(たがじょう)より出羽柵(いではのき)への直路開通を建言し、奥羽両国兵5500、東国騎兵1000、「帰服狄俘(てきふ)」300余を動員。739年帰京し参議となる。この間十数年にわたり奥羽両国経営の最高責任者であった。740年大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)の乱には持節大将軍として諸道の兵1万7000人を率いて西下し、動乱を平定。翌年従三位(じゅさんみ)に進み、恭仁京(くにきょう)遷都(740~744)にあたり、大養徳(やまと)国守兼平城京留守(るす)の任につく。多賀城碑に「此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也」とみえる。娘仲仟(なかち)(中千、仲智)は藤原永手(ながて)の室(しつ)で、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)。

[弓野正武]

『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「大野東人」の意味・わかりやすい解説

大野東人【おおののあずまひと】

奈良時代の武人。父は壬申の乱で勇名を馳せた果安(はたやす)。《続日本紀》の714年の記事に見え,724年の蝦夷(えみし)制圧で功をあげている。多賀城碑には東人によりこの年城が造られたとある。729年には陸奥鎮守(むつちんじゅ)将軍で,737年には陸奥按察使(あぜち)として陸奥から出羽柵(でわのさく)への直線道を建設するため男勝(おがち)村の征討を建言,持節(じせつ)大使藤原麻呂らと坂東六国の騎兵1000人を多賀柵などに配し,4月には新道を開通させた。→鎮守府

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朝日日本歴史人物事典 「大野東人」の解説

大野東人

没年:天平14.11.2(742.12.3)
生年:生年不詳
奈良時代の武官。果安の子。藤原永手の妻仲智(仲仟,中千とも)の父。和銅7(714)年,新羅使の入京を騎兵を率いて迎えたのが史料上の初見。養老3(719)年従五位下。神亀1(724)年従五位上。翌年蝦夷征討の功により従四位下勲4等を受ける。陸奥鎮守将軍,陸奥按察使に任じられ,自ら精兵を率いて,陸奥国から出羽国への直路を開発し,また,その地において,耕種し穀を貯えて運搬の費用を省くなどの施策を行った。天平11(739)年参議。藤原広嗣の乱(740)に当たり,持節征夷大将軍に任じられ,東海以下5道の兵1万7000人を率いて出陣し,鎮圧に成功した。翌年従三位。<参考文献>新野直吉『古代東北史の人々』

(狩野久)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大野東人」の解説

大野東人 おおのの-あずまひと

?-742 奈良時代の公卿(くぎょう)。
大野果安(はたやす)の子。按察使(あぜち)として天平(てんぴょう)9年陸奥(むつ)から出羽柵(でわのさく)への直通路を建設。11年参議で按察使兼鎮守府将軍大養徳守(やまとのかみ)。12年藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を大将軍として鎮圧した。13年従三位となり平城京留守官に任じられる。天平14年11月2日死去。名は「あずまんど」ともよむ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大野東人」の意味・わかりやすい解説

大野東人
おおののあずまひと

[生]?
[没]天平14(742).11.2. 奈良
奈良時代の武将。果安の子。神亀1 (724) 年以来,蝦夷征討に努め,天平 11 (739) 年参議となる。翌 12年藤原広嗣の乱に出征,功により従三位となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大野東人」の解説

大野東人
おおののあずまひと

?〜742
奈良時代の軍人貴族
724年藤原宇合 (うまかい) に従って蝦夷 (えみし) 征討に参加。のち陸奥鎮守府将軍,陸奥按察使 (あぜち) を歴任。740年藤原広嗣の乱に大将軍として平定にあたり,その功で従三位となった。

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世界大百科事典(旧版)内の大野東人の言及

【藤原広嗣の乱】より

…広嗣軍におくれて弟の綱手の軍も目的地に到達したが,多胡古麻呂軍は遂に他の2軍と合流しえなかったらしい。これに対して中央政府は全国的に動員をかけ,大野東人を大将軍に任命し,勅使を派遣した。関門海峡をわたった中央政府軍は三鎮攻略に成功し,軍営を板櫃鎮に進めた。…

※「大野東人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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