奈良時代の武人。壬申の乱で,近江朝廷側の将軍として勇名を馳せた果安(はたやす)の子。724年(神亀1)に起こった蝦夷の反乱の鎮定に派遣されて以来,しばらく奥羽の蝦夷勢力の制圧に活躍する。729年(天平1)陸奥鎮守将軍の任にあり,734年には陸奥按察使(あぜち)として,出羽国の男勝(おかち)村を征して,陸奥国の多賀城から出羽柵(でわのさく)に至る直通道路を開くことを建言。みずから6000の兵を率いて遠征を行い,出羽の蝦夷を帰順させて,道路を開くことに成功した。739年参議に任命され,時に陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守(やまとのかみ)従四位上勲四等。翌年9月九州の大宰府で藤原広嗣の乱が起こるとただちに持節征夷大将軍に任ぜられ,兵1万7000を率いて西下,11月にこれを討った。翌年従三位,恭仁京(くにきよう)行幸に際して平城京留守を命ぜられる。女は藤原永手の室の仲仟(なかち)で光仁朝の後宮で活躍した。
執筆者:熊谷 公男
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奈良前期の武将。壬申(じんしん)の乱の近江(おうみ)朝廷側の武将果安(はたやす)の子。714年(和銅7)騎兵170騎を率いて新羅(しらぎ)使の入京を迎えた。724年(神亀1)陸奥(むつ)国の蝦夷(えみし)の反乱征討に活躍し、翌年従(じゅ)四位下勲四等に叙せられた。729年(天平1)には鎮守将軍であり、737年陸奥按察使(あぜち)として多賀城(たがじょう)より出羽柵(いではのき)への直路開通を建言し、奥羽両国兵5500、東国騎兵1000、「帰服狄俘(てきふ)」300余を動員。739年帰京し参議となる。この間十数年にわたり奥羽両国経営の最高責任者であった。740年大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ひろつぐ)の乱には持節大将軍として諸道の兵1万7000人を率いて西下し、動乱を平定。翌年従三位(じゅさんみ)に進み、恭仁京(くにきょう)遷都(740~744)にあたり、大養徳(やまと)国守兼平城京留守(るす)の任につく。多賀城碑に「此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也」とみえる。娘仲仟(なかち)(中千、仲智)は藤原永手(ながて)の室(しつ)で、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)。
[弓野正武]
『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』
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(狩野久)
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…広嗣軍におくれて弟の綱手の軍も目的地に到達したが,多胡古麻呂軍は遂に他の2軍と合流しえなかったらしい。これに対して中央政府は全国的に動員をかけ,大野東人を大将軍に任命し,勅使を派遣した。関門海峡をわたった中央政府軍は三鎮攻略に成功し,軍営を板櫃鎮に進めた。…
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